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初の女性棋士誕生なるか――西山朋佳女流三冠が挑むプロ編入試験「女に負けるのは許されない空気があった」男性棋士に初めて勝った中井広恵女流六段が語る“悲願”

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2024.09.30 17:05 最終更新日:2024.09.30 21:12

初の女性棋士誕生なるか――西山朋佳女流三冠が挑むプロ編入試験「女に負けるのは許されない空気があった」男性棋士に初めて勝った中井広恵女流六段が語る“悲願”

棋士編入試験に臨んだ西山朋佳女流三冠

 

 史上初の女性棋士誕生なるか!? 西山朋佳女流三冠(29)の棋士編入試験5番勝負が、9月10日より始まった。

 

 一般には馴染みの薄い棋士編入試験とは何か。じつは「棋士」と「女流棋士」は資格制度が違い、棋士になるには女流棋士になるよりも遥かに高いハードルがある。今回おこなわれる編入試験とは、将棋連盟が定めた棋士になる過程とは別に、女流棋士やアマチュアで特別な成績を残した者に与えられるチャンスである。これまで藤井聡太七冠に代表される棋士になった女性はまだいない。西山は、将棋界に新たな時代を切り開くことができるのだろうか――。

 

 

 床の間を背にして、美しく磨かれた将棋盤と駒が対局者の入室を待っている。これは記録係を務める奨励会員が、朝から用意したものだ。彼はすでに盤側の机に座り、記録用紙を前にしていた。西山が棋士編入試験に挑むように、彼もまた奨励会というリングの上で、棋士を目指して戦っている。

 

 10時からの開始に合わせて、西山は20分ほど前に入室した。白のシャツに紺のスーツで、長身でスラリとしたスタイルが引き立つ。受験者として静かに下座に座った。彼女は普段から対局前の表情や雰囲気に闘志を露わにすることはない。目を閉じて、組んだ手を膝の上に置き、小指を小さく動かしている。凛とした佇まいが美しい。それをカメラのファインダーで追いながら、ふと目元と口元に力が込められたのを感じた。

 

 第1局の試験官となる高橋佑二郎四段は、2024年4月に24歳でプロデビューを果たした。高橋を初めて見たのは、このひと月ほど前におこなわれた将棋イベントだ。指導対局で子どもを相手にかがみ込み、同じ目線で優しく話しかけていた。笑顔が素敵な青年だな、と思った。

 

 しかし、盤の前に座った彼の顔は、別人のように違っていた。試験官としての対局はプロの公式戦ではなく、生涯の対戦成績に残るものではない。それでもこの一局に、ただならぬ思いがあるのを感じた。駒を並べ終わると、高橋は脇息にもたれかかり、俯いて左手で顔を押さえこむ。そのまましばらく動かなかった。

 

 高橋が奨励会に在籍していたときに、棋士編入試験が3回おこなわれている。2019年に折田翔吾、2022年に里見(現・福間)香奈と小山怜央で、折田と小山は合格して棋士になった。折田は元奨励会三段であったが、小山は現行の編入試験になって初めて奨励会を経ずに棋士になった。

 

 奨励会から棋士になる過程の修行は極めて厳しく、デビューは狭き門である。10代の青春を投げ打って努力しても、多くの者がプロにはなれない。その奨励会で12年半を戦い抜いた高橋に、編入試験はどのように映っているのだろうか。この対局から2日後、彼に話を聞くことができた。

 

「それは、いちばん重要な質問に感じます」

 

 問いかけに正面から答えようとする意志を感じた。

 

「僕のなかでのことですが、三段リーグで苦しかったときに編入試験を受けている方を見て、そのルートでプロになれるのか、という複雑な思いがあったのは確かです。ですがアマ棋戦を勝ち抜いて、プロ棋戦で一定の成績を残されるのは簡単なことではない。自分が四段になり公式戦を指してみて、その大変さを実感しました。

 

 西山さんに関しては、三段リーグ時代に14勝4敗の成績で次点を経験している。自分も同じ成績でしたが、全体2位で昇段することができた。西山さんは、私のときよりもリーグの順位が上だったにも関わらず昇段を逃しています。そのことを思えば、彼女が受験されることに、こだわりはなかったです」

 

 立会人の中川大輔八段が「定刻になりました」と告げる。高橋は頭を下げながら、はっきりとした声で「お願いします」と言った。開始の挨拶の声が、こんなに響くことは珍しい。心中に秘めた気持ちが、自然と発せられたのだろう。

 

 後手番の西山がとった作戦は、“三間飛車”だった。三段リーグ時代、勝つことだけが求められたなかで、彼女が磨き続けた戦法である。迷いなく飛車を持つ指先を見たとき、筆者は心の中で「そうだよな」と呟いていた。

 

「棋士」と「女流棋士」の違い

 

 一般に知られる「棋士」とは、育成機関の奨励会を経てプロデビューを果たした者たちをいう。奨励会入会試験に合格するには、小中学生でアマチュア五段クラスの実力が必要だ。それでも入会後は、厳しい昇段規定のなかで退会者が続出する。神童と呼ばれた子どもたちでも、棋士になれるのは2割弱しかいない。

 

 一方、「女流棋士」は奨励会を経ずにプロになることができる。将棋連盟が国内6カ所に設けた「研修会」と呼ばれる奨励会の予備組織があり、奨励会や女流棋士を目指す子どもたちの多くが通う。最上位のクラスであるSからF2まで実力ごとに13階級あり、このなかで女子はB2に昇級すると女流棋士デビューができる。

 

 奨励会に編入するにはさらに高いレベルが必要で、15歳までにA2、18歳までに最上位のSに昇級しなければならない。そのレベルで奨励会では6級入会になり、四段に昇段して初めてプロとなる。棋士になるまでの道のりが、いかに長く厳しいものであるかがわかるだろう。

 

 それに対して女流棋士は修行期間が短くデビューできるため、男性プロや女流トップクラスと実力差が大きいのが現実だ。2024年に100周年を迎える将棋連盟の歴史のなかで、女流棋士制度が誕生したのは、その歴史のちょうど半分になる50年前。1974年に創設された女流プロ名人戦で、女性として初めての奨励会員であった蛸島彰子(現女流六段)が初代女流名人となり、その歴史が始まった。

 

 棋士とは別に女流棋士の制度が作られたのは、「女性の将棋も観たい」というファンの声と、男性に比べて圧倒的に少ない女性の競技人口を増やす目的があったと思われる。奨励会に入れる女子がほとんどいないなかで、女性の棋士誕生は現実的でなかった。そのため別規定を作り、プロ資格を与えることにしたのだ。

 

 半世紀を超える女流棋士の歴史は、華やかな一面だけではなかった。昭和の後半、まだ“男尊女卑”的な価値観の強く残る時代にあって、「男よりも下」という見方は否応なく付きまとった。まだ対局も少なく、賞金・対局料などの待遇の低さも顕著であった。

 

「女に負けるなんて、許されない時代だった」

 

 1970年代に蛸島や関根紀代子(現女流六段)、山下カズ子(現女流六段)らが切り拓いた女流棋界。その時期を黎明期とすれば、1980~1990年代に林葉直子(元クイーン王将)、中井広恵(現女流六段)、清水市代(現女流七段・将棋連盟理事)らが活躍した時期は、女流棋界の成長期だった。

 

 中井広恵は林葉に次いで、女性として3人めの奨励会員だった。入会前の11歳10カ月で女流プロデビューも果たしている。これまでに女流タイトルを19期獲得、女流通算勝利数は700勝を超え、将棋界での女性の地盤を支えてきた。そんな彼女でも、当時の境遇は今では考えられないものだったという。

 

「デビューしたころは、周囲の視線が痛い感じでした。女流タイトルを持っていても『弱い』という見方ですよね。言葉も辛辣で……。指導対局に行っても、アマチュアの方に逆に『駒を落としてあげようか』なんて言われる。私だけなら仕方ないけど、女流全体がそう見られるのは嫌だった」

 

 小学6年生で第6回小学生名人戦に北海道代表として出場、準優勝した。これは現在に至るまで女子の最高成績であり、3位には同学年の佐藤康光(現九段・永世棋聖資格保持者)と畠山成幸(現八段)が入賞している。また、一学年下の羽生善治(現九段・永世七冠資格保持者)らも出場していた。前年度の出場時から中井に目を留めていた故・佐瀬勇次名誉九段が、奨励会入りを前提として弟子入りを勧めた。

 

 中井は小学6年生の途中で単身上京して、千葉県にある佐瀬の家で内弟子生活を始める。当時は地方の子が棋士を目指す場合、師匠の家に住みこみで奨励会に通うのは普通だった。とはいえ、小学生の女の子が一人親元を離れて将棋界に入門するのである。不安はなかったのだろうか?

 

「寂しさを感じていた記憶はないです。まだ小学生だから自分が置かれている状況がよくわからなかったのでしょうね。プロを目指すってことだけで上京してきて、奨励会がどれくらい大変なことろかも知らなかったんです」

 

 12歳の夏におこなわれた奨励会試験は不合格。翌年は師匠が受験を見送り、合格したのは14歳のときだった。入会したころは、男の世界に女性が放り込まれた感じだったという。

 

「女に負けるのは許されないような空気がありました。実際に技術の面で男の子たちに追いつくのは大変で、ぜんぜん勝てない。例会が近づくたびに胃が痛くなって……。それに、女子は私一人でしたので、奨励会に居場所がないのもつらかった」

 

 入会したときには2学年上の林葉も在籍していたが、3カ月ほど後に退会してしまう。メディアからも注目を集めていた林葉の退会に、多くのファンが肩を落とした。中井は6級で奨励会入会後、成績不振で7級に降級する。そこから復帰をかけた一戦で、郷田真隆(現九段)と対戦した。

 

「そのころ、郷田くんもあまり調子がよくなくて7級に落ちていた。互いに5連勝して昇級の一番で当たったんです。私は彼に負けた後にも連敗して、8級まで落ちてしまった。それ以上落ちるともう手合いがつかない。8級だと6級とギリギリ香落ですからね。多分、今は奨励会に8級って制度がないんじゃないかな」

 

 中井は年少者にも抜かれていくなかで、「男の子たちは将棋がたくさん指せる環境にあるのが羨ましかった」と言う。実力が近い者同士で研究会や練習将棋がおこなわれるが、女子で技術的にも劣る中井には声がかからない。また内弟子といっても、師匠の佐瀬の年代の棋士は「将棋は自分で努力して強くなる」という考え方であり、弟子に教えることをしなかった。中井が実家の北海道にいたときには、父親が将棋の勉強のカリキュラムを作ってくれていた。しかし一人になって、何をどう勉強していけばいいのかわからない。まだAIもネット対局もないころである。月に一回ある一門の研究会と、土日に将棋道場に行って指すのが、限られた勉強だった。

 

 これは同じ時代を経験した林葉直子にも言えることで、奨励会入会後に女子が強い相手と将棋を指せる十分な環境がなかったことが、成績を伸び悩ませる原因の一つだったと考えられる。中井の成績が伸び悩むのを見兼ねた兄弟子の植山悦之(現七段)が、後輩の奨励会員たちの研究会に妹弟子を紹介してくれた。結果的に中井は、20歳までに初段という年齢制限の規定をクリアできずに2級で退会するのだが、8級まで落ちた後に6階級の昇級を果たしたわけだ。

 

「勝てるようになってきたときに、退会になってしまった。1年間に4階級くらい上がった年もあって、もう少し指せる期間がほしかった。昔は女性が強くなるタイミングは男性と違って、同じようには進んでいかない気もしていました」

 

「明日は美人なほうが勝ちます」

 

 中井は林葉と10代から女流タイトル戦を幾度も戦ってきた。そして、林葉・中井が女流棋界で活躍を始めたころは、男性中心の“昭和の空気”に包まれていた。

 

 今でも中井はタイトル戦前夜祭でのことが忘れられない。対戦相手の林葉は端整な容姿で人気があり、メディアにも多く出演していた。来賓として挨拶に立った地域の後援者の一人が言った。

 

「明日は美人なほうが勝つと思います」

 

 会場にいるのはほとんどが男性で、ドッと盛り上がった。そんなことが当たり前の時代だった。

 

「私も年ごろだったので、傷つきましたよ……。林葉さんもいろいろ大変だったと思います。2人でそんな苦労を話し合ったことがよくありました」

 

 将棋そのものへの注目よりも、女流は“棋界の彩り”として見られる向きが強かった。ある女流棋士がこんな経験を話してくれた。自分の棋譜が将棋雑誌に紹介されたときに、嬉しかったので仲のいい男性棋士に「見てくれましたか?」と聞くと、あきれたような表情でこう言われた。

 

「女流の将棋なんて、見るはずがないだろう」

 

 わかっていたつもりだったが、ショックだった。「現在ではだいぶ改善されましたが」と彼女は続けた。

 

「棋士はピラミッド社会で、奨励会はその土台に当たりますが、女流の多くはそこに入ることができなかった。同じ団体にいながら、どこまでいってもそのピラミッドに入ることができなかった。その仕組みに気づいたのは、女流棋士になった後でした。ただ、私は女流棋士という制度があったから、プロになることができました。多くの奨励会員よりも弱く、低い立場で、それでも仕事をさせてもらえるのは女性であったからですし、感謝している気持ちのほうが大きいです」

 

 将棋界は正会員の棋士で構成されているが、女流棋士には長らく正会員の資格がなかった。2011年に将棋連盟が公益社団法人化されるときに、女流四段以上には正会員資格が認められたが、現在も女流三段以下は準会員という位置づけである。そして将棋連盟のホームページにある棋士系統図には、いまだ女性の名前は一人もない。中井は言う。

 

「女流は契約社員みたいな感じで、お給料もなければ発言権も選挙権もなかった。私たちは男性棋士より弱いし、奨励会を卒業したわけではないから仕方がないと思っていたんです。でも女流には社会保険がないとか、そうした生活に欠かせないものは考えてもらえないかと感じていました。蛸島さんの時代から話し合われて、要望書を出されてたりしてきたのですけど通らなかった。やはり自分たちのことは、自分たちでなんとかしなければという気持ちがずっとあった」

 

 2006年、当時の米長邦雄連盟会長(故人)に呼び出された中井と石橋幸緒(元女流四段)は、こう告げられた。

 

「女流の一部から、いろいろな要望が出ている。君たちで彼女たちを説得してくれないか。あまりうるさく言うようであれば、独立してやってもらうしかないと」

 

 米長からすれば、“独立”という言葉は、半分おどしのつもりだったのだろう。中井たちが女流の中心メンバーたち約20人が集まる場でこのことを伝えると、「そこまで言われるなら、できるなら独立してやったほうがいいんじゃないか」という意見が多数を占めた。

 

 積年の想いが、大きなうねりとなって動き始める。2007年、LPSA(日本女子プロ将棋協会)発足を前に、ほとんどの女流棋士が賛同を表明した。しかし、直前になって連盟からの引き留めや師匠からの説得により、踏みとどまるものが続出する。将棋界において師弟関係は強く、師の言葉に背くことは破門にも等しい。結局独立したのは当時の女流棋士の約半数の17名だった。中井が初代代表に選出された。

 

「分裂したら、やっぱりうまくはいかないです。全員で一枚岩になれば、連盟と交渉することもできたけど、離れてしまったら敵味方じゃないですが、いらないところで競争のようなものが生じたり……。連盟に残った人たちにとっても、不幸な面はあって。やっぱり改革が進まない。見た目には、四段以上は会員資格をもらえて選挙権もあるようになったし、仕事だってLPSAに比べたら多い。以前に比べたらいい面も増えたとは思いますけど、根本的に自分たちで何かを決められるわけじゃない」

 

 その後、中井はLPSAとの考え方の相違から脱退し、フリーの棋士となった。LPSAは2013年に連盟側との対立が深刻化し、二代目代表の石橋がマイナビ女子オープン戦での対局をボイコットする事態が生じる。翌年に石橋が責任を取る形で辞任し、女流棋士を引退して棋界を去った。その後、3代目代表に中倉宏美女流二段が就任し、連盟との協力体制を強めていく。2018年にはLPSA所属の渡部愛女流三段が女流王位のタイトルを獲得し、注目を集めた。

 

 LPSA発足以前の連盟と女流棋界の関係がけっして悪かったわけではない。ただ棋士の存在によって支えられた女流棋界という、将棋連盟の付属的立場からの自立を目指したのである。自分たちで改革の主導権を持ち、環境を変えていくことで、もっと多くの女性プレイヤーを育てていく。それが将来的に男性と対等に戦えるための土壌となっていくとの思いがあった。

 

 西山は今回の編入試験資格を獲得した当日に、受験の意志を表明した。中井にはそれは少し予想外だったという。

 

「そのひと月ほど前に西山さんにお会いしたとき、資格を獲得したらどうするのかを聞くと、迷っているような印象でしたから」

 

「女性棋士」誕生は多くの人が期待するところではあるが、現実的に西山が合格した場合に、女流棋戦との両立が可能かという問題がある。

 

 それは福間のときも同じであった。両者は女流タイトルを分け合い、年間の女流棋戦の対局数が非常に多く、50局前後を指している。タイトル戦の場合は前夜祭、移動日を含めて1局につき3日は必要になるため、スケジュールの多くが占められてしまう。そこに棋士の公式戦が加わることになるわけだ。ただ中井は、いちばんの問題は対局数が増えることではなく、別にあるという。

 

「西山さんが迷われるとしたら、女性としての人生設計を考える年齢だということではないでしょうか」

 

※文中敬称略

 

写真/文・野澤亘伸

 

のざわひろのぶ
1968年生まれ 栃木県出身 1993年、「FLASH」カメラマンとなり、フリー転身後は『師弟 棋士たち 魂の伝承』(光文社文庫)で第31回将棋ペンクラブ大賞受賞。そのほかの著書に『絆 棋士たち 師弟の物語』(新潮文庫)、『オオクワガタに人生を懸けた男たち』(双葉社)など

 

※後編「初の女性棋士誕生なるか――西山朋佳女流三冠に敗れた高橋佑二郎四段『最後まで紙一重だと思って指した』意地の105手目」に続きます。

( 週刊FLASH 2024年9月24日・10月1日合併号 )

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