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不快な笑顔「にたにた」はどうやって誕生したのか…江戸時代にはとろける笑顔「ほやほや」も存在していた

(写真・AC)
「にこにこ」と微笑みかける笑顔は、その笑顔を向けられた人間に快い気持ちを起こさせます。でも、笑顔には、少々不快なものもあります。「にやにや」されたり、「にたにた」されたりしたら、それを見る人間は、嫌な気持ちになります。
つまり、笑顔と一口に言っても、快感を与える笑顔もあれば、不快感を与える笑顔もあります。
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この2系統の笑顔を意識して、笑顔を写す言葉の歴史を辿ってみると、実に興味深いことが明らかになります。じつは、2系統の笑顔を表わす語は、すべて物事の状態を表わす語から転用されたものなのですが、どんな状態を表わす語から、どんな笑顔を写す言葉が生まれたのでしょうか?
■とろける笑顔「ほやほや」の出現
江戸時代には、好印象を与える笑顔を表わす擬態語が出現しています。「ほや」を語基とする「ほやほや」「ほやり」「ほいやり」です。「にこにこ」ほど一般的な語ではないけれど、好印象の笑顔を写す語として江戸時代によく使われていたと察せられます。
笑話集に、次のように見られます。
《としごろ成る女房、下女を壱人めしつれ来るとて、この男をみてほやほやと笑ひ寄り》(「軽口露がはなし」巻二の九、『江戸笑話集』所収)
(年配の女性が、下女一人を連れて来たが、この男を見るとほやほやと笑って寄って来て)
「ほやほや」は、ちょうどいい人が見つかったとばかりに、満面の笑みを浮かべて、見知らぬ男に話しかける時の女の笑顔です。「にこにこ」と同じく好印象の笑顔ですが、さらに誘いかけるような柔らかさの加わった笑顔です。「ほやり」「ほいやり」も、「ほやほや」と同じく柔らかな笑顔です。
そんな笑顔を表わす「ほやほや」は、元はどんな意味の語だったのでしょうか? 「ほやほや」という語自体は、鎌倉時代から見られます。問答形式で書かれた語源辞書『名語記』(1275年成立)には、こんな説明がされています。
「腫物が膿(う)むのと、木の実が熟(う)む(=熟する)のとは、おなじ『うむ』でも、意味合いが違うのではないか」という質問に対して、「ほやほやと和らぐことが同じ」というのです。
確かに、熟した果実と膿みが出そうな腫物とは、頼りなくぷよぷよしている状態が共通です。「ほやほや」は、こんなふうに鎌倉時代にすでに出現していましたが、当初はふっくらして柔らかくなっている状態を表わす語であったことが分かります。
室町時代にも、「ほやほや」が見られますが、やはり状態を表わしています。たとえば、春風がやわらかく吹く様子を「ほやほや」と言っています。「ほやほや」は、ふっくらと柔らかい状態や様子を表わす語だったのです。それが、江戸時代になると、笑顔を表わす語に転化。だから、もともとの意味を継承して、柔らかく快い印象を与える笑顔を意味することになったわけです。
■粘着する笑顔「にたにた」の出現
江戸時代は、「ほやほや」のように、快い笑顔を発生させていますが、一方、不快な笑い顔も発生させています。「にたにた」「にったり」が江戸時代に出現しています。現代にも継承されていますので、馴染み深い不快な笑い顔です。
《五十貫目に余る大筒宙だめに、火蓋を丁ど切て放す。(中略)こなたに小坂部にたにた笑ひ》(「鎌倉三代記」第六、『浄瑠璃集下』所収)
(=50貫目以上の大砲を宙づりにして、火蓋を勢い良く切って放す。(中略)こちら側では、それを見て小坂部がにたにた笑っている)
小坂部が、打ち寄せる鎌倉軍勢を察知して、こっそり裏口から逃げ出して、大砲を撃って打撃を与え、一人満足の笑みを浮かべている場面。その笑顔は、他者から見たら、気味の悪い笑顔です。「にたにた」の「にた」と同じ語基からできた「にったり」も、やはり、他者から見ると、不快な笑い顔です。
では、「にたにた」「にったり」は、なぜ印象の良くない笑い顔を意味するのでしょうか? 実は、「にたにた」は、もともと潤っていて、粘る状態を意味する語だったのです。室町時代には、こんな用例があります。
《にかわを にたにたと ゑのぐにねりて》
(膠をにたにたと絵具に練りつけて)
膠は、色の素になる顔料に混ぜて絵具にします。「にたにた」は、膠のようなものが粘り着く状態を意味しています。ですから、「にたにた」は、もとは、さわやかさに欠け、粘りつく状態を意味する語だったのです。それが、江戸時代に笑顔を意味する語になった。だから、しつこく粘りつくような笑顔を表わすことになったわけです。
不快な笑顔には「にがにが」という語もありますが、こちらは室町時代に「苦い」から出現した笑顔です。こうしてみると、江戸時代は、鎌倉・室町時代よりも不快な印象を写す笑顔が増えていることに気づきます。不快な笑い顔が勢力拡大中なのです!
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以上、山口仲美氏の新刊『男が「よよよよよよ」と泣いていた 日本語は感情オノマトペが面白い』(光文社新書)をもとに再構成しました。現代人の常識をくつがえす「泣く」「笑う」オノマトペ
の歴史と謎に迫ります。
●『男が「よよよよよよ」と泣いていた』詳細はこちら