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なぜ「伊勢神宮」は最高の祭祀の場所になったのか…地質学が教える「水銀」と「豊かな海産物」の影響

ライフ・マネー 記事投稿日:2025.12.20 06:00 最終更新日:2025.12.20 06:00

なぜ「伊勢神宮」は最高の祭祀の場所になったのか…地質学が教える「水銀」と「豊かな海産物」の影響

伊勢神宮の「饗膳の儀」(写真・共同通信)

 

 政権を掌握した天武天皇は、娘である大伯皇女を斎王として伊勢神宮へ派遣しました。そして天武10年(681年)5月己卯(11日)に皇祖の御魂を祀る、つまり歴代の天皇の御魂を祀るという記事が『日本書紀』にあり、このことが皇祖神である伊勢神宮の天照大神の祭祀を意味している可能性があります。

 

 次の持統天皇は、まず自らの王権の神聖性を高めようとしました。690年の即位にあたっては、天皇の神聖性と儀礼的継承の重要性が演出的に強調されました。また天皇は畿内をはじめとして各地の天神地祇に対して貢物を送りました。そしてついに692年には伊勢行幸(天皇の外出)を敢行し、さらに天皇が貢物を送る神社の中で伊勢神宮を筆頭においたのです。

 

 このように、7世紀後半に天武・持統天皇によって朝廷としての伊勢神宮におけるアマテラス祭祀が国家運営の中枢に位置づけられました。ではなぜ朝廷祭祀の場所として伊勢の地が選ばれたのでしょうか?

 

 推古天皇の頃より始まった日神崇拝。大和の地から、日の出る東方に清らかな海上から太陽の昇る地を探せば、伊勢の海岸へと至るでしょう。また、その時期についてはいまだ定説はないようですが、ヤマト王権が東国へと支配を拡大する際には、伊勢湾沿いの港から出帆したであろうことは、多くの人たちが指摘しています。

 

 これらに加えてここでは、地質学的な観点から、ヤマト王権にとって伊勢は「水銀」を産する特別な地であったことを指摘したいと思います。

 

■伊勢が選ばれた理由

 

 青丹よし奈良の都に咲く花の薫うが如くいま盛りなり

 

 おそらく多くの人が一度は耳にしたことがあるこの『万葉集』の歌は、九州・太宰府へ赴任した役人が、もう二度と戻れないかもしれない華やかな奈良を想って詠んだものといわれています。この「丹」は赤色「朱」のことで、当時は「辰砂(しんしゃ)」(硫化水銀)が顔料として使われていました。

 

 また辰砂(丹)を産する地は「丹生(にゅう)」と呼ばれており、今でも全国各地にこの地名が残っています。

 

 この丹生の地名の発祥の地ともいわれるのが、三重県・多気町、伊勢神宮の西にあった丹生鉱山です。この鉱山では縄文時代から辰砂の採掘が行われていたようで、近隣の森添遺跡、池ノ谷遺跡、森ノ上遺跡、天白遺跡などから、朱で彩られた土器や磨石などが見つかっています。

 

 丹生鉱山は、日本列島で最大規模の大断層で、領家帯と三波川変成帯と呼ばれる地質帯の境界をなす「中央構造線」のすぐ北側に位置しています。領家帯には、約1億年前、ちょうど恐竜が闊歩していた時代に地下に貫入したマグマが冷え固まった花崗岩が広く分布しています。

 

 このマグマ活動に伴って水銀鉱床が形成されたのです。そして近畿地方には、この中央構造線の北側に点々と水銀鉱山が分布しています。奈良盆地の東側には、多武峰や宇陀に比較的大規模な鉱床があり、これらでも古墳〜飛鳥時代から辰砂が採掘されてきました。特に後者は「大和水銀」として知られています。

 

 古墳時代には、古墳の石室に辰砂が多く使われるようになります。有名なものが、おおやまと古墳群の中の天神山古墳(4世紀後半)でしょう。国立文化財機構の「e国宝」の解説によると、石室内には41キログラムの辰砂が埋納されていたそうです。

 

 その他、奈良盆地の古墳からも辰砂で朱に塗られた石室がいくつか見つかっています。これらの辰砂は一体どこで採られたのでしょうか? この辰砂の流通を明らかにすることは、当時のヤマト王権の勢力範囲を知る上で重要です。

 

 その手がかりは、辰砂の化学組成にありました。日本列島を含む東アジア地域の水銀鉱床で産出する辰砂を調べると、辰砂に含まれる硫黄や鉛の同位体比の組み合わせが、それぞれの鉱山で特徴的な値を持つことが分かってきたのです。これらの値と古墳で得られた朱の化学組成を比べることで、桜井茶臼山古墳(3世紀後期)の朱は大和水銀鉱山産、4世紀前半に造営された黒塚古墳および天神山古墳の朱は丹生鉱山産であることが分かったのです。

 

 つまり、先に述べた伊勢神宮周辺の考古学的証拠からヤマト王権が伊勢地方に影響力を及ぼしたと推定される時代に先んじて、ヤマト王権は伊勢の丹生鉱山から辰砂を運んでいたのです。4世紀初頭にはヤマト王権が伊勢丹生産の辰砂を利用していたことから、伊勢神宮の創祀にあたり、王権はこの辺りの地勢を熟知していたと推察できます。

 

 さらにもう一つ、伊勢神宮の創祀に先立って、伊勢が王権にとって重要な地であったことを示しましょう。

 

 それは伊勢が、大王の食事、あるいは「神饌」といわれる神に捧げる食事の食材を供給する「御食国(みけつくに)」であったことです。平城京跡から出土した木簡には、伊勢からアワビやナマコ、それに海藻などが献上されたことが記されていますし、7世紀後半から8世紀に成立した『万葉集』にも御食国伊勢に関する歌がいくつか見られます。

 

 伊勢が御食国として成立したのは、6世紀後半〜7世紀初頭と推定されています。それは、現在の鈴鹿市にある天王遺跡の調査から、この地にヤマト王権の直轄地である「屯倉(みやけ)」があり、御食国から王権への食材運搬の拠点となっていた可能性が高いのです。

 

 では、なぜ伊勢は御食国となったのでしょうか? それは伊勢の、特に志摩半島から西へ続く入り組んだ海岸線にあります。このような海岸は「リアス海岸」と呼ばれ、内湾には背後の山々から森の栄養分が流れ込み、植物プランクトンが湧き立ちます。

 

 この豊かで静かな内湾では大ぶりのカキが育ち、また外洋からは多くの魚たちが入ってきます。一方太平洋(熊野灘)に面して潮流が洗う磯海岸には、アワビやサザエ、ウニ、それに海藻が育まれます。

 

 リアス海岸は内湾と半島を繰り返し、ノコギリの歯のように入り組んだ地形です。そしてこの地形は、もともと谷が発達した海岸山地が沈降して、谷に海が侵入して内湾が造られ、尾根筋が半島となったものです。そう、リアス海岸は「沈降海岸」なのです。そしてこの地盤の沈降を引き起こす大きな原因が、海溝型巨大地震です。

 

 伊勢志摩の南には、フィリピン海プレートが地球内部へ潜り込む「南海トラフ」があります。そしてこの領域では、過去に何度となく巨大地震が発生してきました。

 

 南海トラフ沿いでは伊勢志摩の他にも、高知県須崎周辺、豊後水道の四国側と九州側にリアス海岸が発達しています。これらもまた、過去に何度も起きていた南海トラフ巨大地震の結果できたものです。

 

 これらのリアス海岸は、豊かな海産物の恵みを私たちに与えてくれますが、同時にそれは巨大地震や大津波という試練の場でもあるのです。

 

 

 以上、巽好幸氏の近刊『神と仏の人文地質学 地殻変動で解き明かす日本古代史』(光文社新書)をもとに再構成しました。ヤマト王権の祭祀から神仏融合へ至るまで、マグマ学者が地質学の視点で日本の始まりの時代を究明します。

 

●『神と仏の人文地質学』詳細はこちら

出典元: SmartFLASH

著者: 『FLASH』編集部

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