
応仁の乱での足軽の狼藉を描いた絵図として知られる「真如堂縁起」(写真・共同通信)
応仁元年(1467)より続いた大乱(応仁・文明の乱)は、次第に大規模な戦闘は減少し、散発的となっていた。文明3年(1471)には西軍の主力を担った越前の朝倉孝景が東軍に内応、文明5年には細川勝元や山名宗全が死去し、翌年には細川・山名氏の和睦も成立した。日野勝光は大内政弘との仲介や畠山義就の赦免の仲介など、大乱の終息を図ったがこれは失敗している。
ただ、日野勝光が文明8年6月死去したことで状況は変化した。足利義政は9月になって大内政弘に対して、「世上無為(大乱終結)」を命じたのである(『蜷川家文書』85号)。
大内政弘は大乱の和睦について、義政と(弟で後継者とされた)義視との和睦を条件としていた。日野勝光が死去してその障害がなくなったことで、義視との和睦も現実味を帯びたのである。そして、義視より義政に書状が送られ、義政も義視へ返信をしたことで、急速に関係改善が進められた。そもそも義政が西軍の大内政弘と交渉できたのは、勝光の持っていたルートが活用されたとみられる。
そして、文明9年になって西軍諸将は大内氏をはじめ、義政への御礼(挨拶)を再開して主従関係を復活させていった。さらに義政と義視との関係改善も進められた。その一環として、義視の娘を義政と妻・富子の猶子として、大慈院に入室させることとなったのである。
西軍諸将が京都を離れて帰国するなかで、11月に10年にわたる大乱は終結した。その際、西軍の諸将は陣所を自焼していたのだが、富子は大内方に対して、当時、西軍が占領していた内裏について被害を受けないように交渉していた(『兼顕卿記』)。そのため、隣接する仙洞御所は焼失してしまったものの、内裏は巻き込まれずに無事であった。
富子はさらに能登守護畠山義統に対しては、帰国費用を貸し出していたとみられている。富子は大乱終結にあたって、大名との交渉や金銭の貸し出しやその処理も担っていたのである。
大内氏は帰国後、義政・富子らに改めて御礼を行うが、その際、富子には特に「下国の時宜(=挨拶)」として一万疋(約1000万円)の御礼を進上している(『親元日記』)。富子が特に政弘の下国に便宜を図っていたことがうかがえる。
もっとも、富子がいかに大乱の終結を主導しようが、西軍諸将は義政に赦免されなければならなかった。また、将軍は義尚であるが、西軍の大名たちは義尚に赦免を求めたわけでもない。あくまでも武家社会における主人は富子ではなく、室町殿である義政であり続け、富子はそのお膳立てを行ったといえるだろう。
■富子の財力の根源は
富子は一般的に、金銭にがめつい女性とのイメージを持たれているだろう。『大乗院寺社雑事記』文明9年(1477)7月29日条は富子の財力に言及しており、それには「所持する料足(=金銭)の数はわからない。陣中の大名・小名に利子を付けて貸し付けている。ただ、天下の料足は富子が独占しているかのようにみえる」と書いている。
実際、富子は大名らに貸し付けたり、朝廷や公家衆へ経済支援をしたりした。大乱中の文明8年には禁裏小番衆に対して1万疋(約1000万円)を、大乱後の文明12年の勝仁親王(後柏原天皇)の元服の際には2万疋(約2000万円)を進上している。これらは幕府の金というよりは、富子個人の財産でまかなわれたのである。
そもそも、御台所に将軍とは別に「上様(御台)御料所」があった。義満の時代には「上様御料所」が設定されていたとされる。将軍と御台所は所領が別個であったため、富子は独自に利殖に励むことができたのだ。
富子時代は多くの上様御料所を持ち、加えて御台所には酒屋・土倉役の一部が割り当てられた。さらに大名らからの御礼進物も定期的にあった。つまり、富子(御台所)の財源は上様御料所からの公用と酒屋・土倉役を主として、大名などからの進物などから成り立っていたのである。
さらに御台所には「上様御供衆」「上様走衆」といった将軍直臣が付属させられていた。加えて富子には独自の被官がいた。御台所に付属させられた直臣は、おもに外出時の御供、申次(女房衆とは別途)、使者、進物の受け取り、八朔奉行の5つの職務があったという。このような被官たちや所領の存在から、富子は将軍家を構成する一つの「家」を形成していた。
富子の活動は単に政務運営に限定されず、経済的な活動も同時に行った。朝廷や公家衆への経済支援や大名への貸し付けに留まらず、幕府の財政にも関わったのである。
文明10年(1478)、幕府は内裏の修理の費用のために京都七口の関所を設置し、関所の交通料を徴収しようとした。これは周囲の人々の不信を買い、現地の住民が妨害に及んだ。
当時、後土御門天皇は大乱以来避難していた室町第が文明8年に焼失したことにより、富子の母北小路苗子のいた北小路殿に移っておりその還御の準備のために内裏の修理が必要であった(『長興宿禰記』)。
この関所は一旦停止したが、文明十二年九月に再建された。だが当時、実際はその関所の交通料を富子が独占したのだとみるものもいた(『大乗院寺社雑事記』ほか)。この時点で後土御門は内裏に還御していたからである。
この関所設置に抗議して京都周辺で土一揆が発生し、関所は壊滅した。ただ、実際に富子が独占したかどうかには留意が必要である。富子は義政に代わって前述のように朝廷・公家衆への経済支援を行っており、その費用のためとみることもできる。
さらに、文明10年に幕府は室町第の再建などのための財源として、山城国内の寺社本所領に年貢収入の5分の1という段銭(臨時の課税)を賦課した。これについて、負担が増加する公家衆は幕府に免除を求めた。その依頼先は義政ではなく、富子であった(『兼顕卿記』)。
段銭免除の可否を判断できるということは、富子が幕府財政においても主導権を持っていたことを示している。
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以上、木下昌規氏の新刊『足利将軍をめぐる女たち 日野富子ら御台所・妾・女房の仕事』(光文社新書)をもとに再構成しました。足利将軍の時代を「女性たちの仕事」という視点から通史的に叙述します。
■『足利将軍をめぐる女たち』詳細はこちら
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