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中学の夜逃げ生活から逆転「最高の焼肉」で成功した男の転機

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.10.11 11:00 最終更新日:2018.10.11 11:00

中学の夜逃げ生活から逆転「最高の焼肉」で成功した男の転機

 

 焼き肉を食べ歩いたことで、国産処女牛の肉の美味しさを知り、それが店の看板となった。

 

 

 22歳で店を始め、29歳で法人化。飲食店経営に逆風が吹くなか、支店を増やし、成功をおさめた間宮茂雄さん(37)。だが、道のりはけっして平坦ではなかった。中学3年生のとき、父親が経営する会社が倒産し、天国から地獄へと生活が一変した。

 

夜逃げ状態で父は車上生活者になり、母はおばさんの家へ。2人の姉と元の家に住んでいたけど、借金取りがしょっちゅうやってくる。下の姉が耐えられずに祖母の家に行き、上の姉と2人で隠れるように住んでいた。

 

 でも結局は住めなくなって、2人でアパートを探して引っ越し。姉は大学進学も決まっていたけど、あきらめて就職。僕は中学生なので働けない。

 

 事情を知っているとんかつ屋さんが、賄いつきで皿洗いの仕事をくれ、ライスが残ると持たせてくれた。それを冷凍して後日食べた。高校を卒業するまで3年半勤めた」

 

 両親にはたまに会った。父親の強い希望で高校に進学したが、学費を払うのに苦労した。父親の状況を見ていたので、卒業したら公務員になるつもりだった。しかし公務員では結局、学歴で競争に負ける。

 

「何か自分でやろうと。とんかつ屋で働いていたので、やるなら飲食業。高単価で売り上げが取れて、初期費用がかからないもの。それに20歳までにやりたかったので、長い修業の必要のないものを考えた」

 

 18歳からハンバーグ店に勤めた。そのころから焼き肉店をやろうと決め、2カ月で辞めて翌日から焼き肉のチェーン店に就職。1年半ほど修業した。そしてそこから、新しくできた焼き肉店で店長として働くことになった。

 

「勤めていたチェーン店は、外国産牛しか扱っていなかった。それで和牛を使えるなら、という条件をつけた。和牛にこだわるようになったのは、焼き肉の食べ歩きをしていたときに、ある店で和牛のハラミを食べて、その美味しさに衝撃を受けてから。

 

 和牛を扱う修業をしていないので、先輩が料理長をする焼き肉店でさばき方を学んだ。店を持つためによく働いた。夕方の5時から深夜12時まで店長として働き、それからホールの勉強のために別の焼き肉店で朝の4時まで。朝は9時から同じ店の掃除。11時半から3時までは寿司屋で調理の手伝い。半年間続けて300万円を貯めた」

 

 まかされた店は赤字続きで1年半後に閉店が決まり、300万円で買わないかと打診された。今ならそんな話には絶対に乗らないが、当時は何もわからないので、300万円ならいいと思った。一方で、ホールのバイトをしていた店から40万円の給料で社員にならないかと誘われた。

 

「21~22歳で40万円は破格。300万円を元手にお金を借りて自分で店をやるか。安定か、リスクを取るかの転機だった」

 

 選んだのはリスク。貯金を全額おろしてくれた姉から300万円、国民生活金融公庫から400万円を借りた。1000万円を資金に22歳のとき、神奈川県大和市に「食彩和牛しげ吉」を開いた。

 

「客が来ず、1年間給料なし。でも、肉へのこだわりは変えなかった。1年後ぐらいからお客さんが来るようになり、入りきらなくなった。売り上げも6、7倍になり、自信がついた。それで、横浜・元町のはずれにあるビルの地下に、2店めを出した。

 

 改装にお金をかけたがまったく駄目で、給料なしに戻った。仕方なく店を売りに出したが、値引き交渉をされたので、断わった。

 

 ところがその翌月から突然売り上げが倍になった。理由は全然わからない。さらに人気テレビ番組で紹介されて、売り上げがまた倍増。今は同じビルの2階にも店を出している」

 

 食べ歩きの結果、肉へのこだわりは2010年ごろから国産の処女牛に変わった。

 

「メスの肉は脂っぽくなくて胃もたれもしない。甘味も強く、去勢牛の肉と比べて肉質が柔らかい。この美味しさを知ってほしい」

 

 自らを、感覚派で数字に弱い経営者という。

 

 仕事での目標は、従業員の労働時間短縮と休日の増加。個人では、プロゴルファーかゴルフインストラクターになること。ゴルフも感覚派だそうだが、ハンデは3とのことだ。
(週刊FLASH 2018年10月9日号)

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