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人はどのようなきっかけで「年をとった」と感じるのか?
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.12.04 16:00 最終更新日:2018.12.04 16:00
人は、いつどんな場面で「自分は歳をとった」と言い始めるのだろうか?
作家の瀬戸内寂聴さんは、圧迫骨折による半年間の寝たきりの入院生活を88歳で経験したことが、初めて「歳をとった」実感を持った時だと語る。
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「半年も寝ているだけという宣告もショックでしたが、何より驚いたのは、先生から『お歳ですから』と言われたことです。白内障のときにもたしかに自分の年齢を感じましたが、このときあらためて八十八歳という年齢を突きつけられました。『老い』を心底、実感したのは、これが初めてだったと言えるでしょう」(瀬戸内寂聴、池上彰著『95歳まで生きるのは幸せですか?』
PHP新書、2017年、43~44頁)
ここで興味深いのは、「何より驚いたのは、先生から『お歳ですから』と言われたことです」という点である。他人が暦年齢で長寿者を見る時の目と、本人自身の年齢感覚のズレが明確に示されている。
加えて、長寿者の年齢感覚をよく示しているのは、加齢現象の1つである白内障の手術を経験しているにもかかわらず、それが「歳をとった」という実感につながっていないことである。
88歳になるまで「高齢の老人であるという自覚が薄かった」瀬戸内さんにとって、「『老い』を心底、実感」するためには、半年間の寝たきりという形での日常生活の中断、介護を受ける境遇という2つの体験が必要だったのである。
それと似た事実を、脚本家、橋田壽賀子さんも、「私の老後は88歳から始まった」という見出しのもと、次のように書く。
「いまや、私はすっかり老後です。まったくの余生だと自覚しています。きっかけは、体力の衰えでした。八十八歳の米寿のお祝いをした頃から、身体がしんどくなりました。急に足が痛くなったり、背中が痛くなったり。出かけるときも、人に頼んで付いて来てもらわないと、どこへも行けません。それでもう『ああ、これは老後だな』と思うようになったんです」
(橋田壽賀子「私の老後は88歳から始まった」『文藝春秋』2017年10月号、318頁)
橋田さんが「老後」と自覚した年齢は、偶然にも瀬戸内さんと同じく88歳だったという。しかし、その自覚をもたらしたのは、88歳という年齢の要因より、「体力の衰え」や、日常生活で人の手助けが必要になったことの方が大きいのではないか。
こうして見てくると、瀬戸内さんや橋田さんに限らず、「元気長寿者」が「自分が歳をとった」と自覚するきっかけには、それまで日常習慣としてやっていたことができなくなり、「体力の衰え」により人の世話・手助けを必要とするようになること、この2つが大きく関わっている。
この2つの側面(「日常習慣の喪失」と「体力の衰え」)は、多くの場合、同時に生じることが多いため、この2つがどのように絡み合うのかについては、あまり問題にされることはない。
しかし、日常習慣を取り戻すことで「体力の衰え」を回復している人もいれば、体力があっても日常習慣を失ってしまうことで、「体力の衰え」が一気に進む人もいる。
私が話を聞いた2人の女性、Mさん(96歳)とNさん(93歳)は、最初の話を聞いたちょうど1年後、偶然2回目の話を聞くことになった。Mさんはひとり暮らし、Nさんは、息子夫婦と孫の5人暮らしだ。
60年以上にわたる友人同士という2人は、今は異なる県に住むが、年に数回、県境の温泉宿で落ち合い、4、5日ほど宿泊して旧交を温める関係だという。
その2人を宿の女主人から紹介され、話を聞くことになったのだが、初めて会った時には元気だったNさんが、1年後にはすっかり「歳をとり」、それに関する話題となったのだ。
春日「60年以上も友情が続くというのはすごいことだと思うんですが、ここに来られたとき以外、日頃の付き合いはあるんですか」
Mさん「Nさんはすごくこまめな人で、1週間に一度は電話がかかってくるんですよ。それが主ですかね」
春日「へえー! すごいですね。1週間に一度というのは。で、電話でどんな話をされるんですか」
Nさん「たわいもないことで。『元気、どうしてる?』『今日はお花買ってきて玄関に活けた。きれいだよ』とか。『トマトが熟れたと思ったら全部猿に盗られた。それで、息子が網を張ってくれた』とか。まあ、なんでもないことです」
このように元気だったNさんが、2年目に会った時にはすっかり老け込み、元気を失っていたのだ。その間の事情を、年長者のMさんが、次のように説明する。
春日「Nさんは去年に比べて、元気がないような気がするんですが」
Mさん「そうなんです。以前はなかった『歳をとってしまって、息子らに迷惑をかけてばっかりだから、早く死んだ方がいいのかも』なんて、言い始めて。去年までは畑で花や野菜を作っていたのが、今年は手が痛むようになってできなくなって。
(息子さんは)とっても孝行息子さんで、(Nさんは)日常は何もしなくていい。家事も、火事にでもなると危ない、掃除も転けたらいけんから、しないでいいと言ってくれて、何もしない。
それに、耳が不自由になって、テレビの音量を高くしないと聞こえないんだけど、家族に気兼ねして、画面だけを見ているそうなんです。そうやって何もしないで一日一日を過ごすのは大変ですよね。
ほんと、去年に比べたらぐっと落ちてしまって、なんかぼんやりとした感じになって」
引用が長くなったが、長年の日常習慣としてきた家事や野菜作り、テレビ鑑賞という楽しみを、この1年の間に失ったことが、Nさんの体力、気力両面での「老化」と関わっているというのが、Mさんの考えである。
これは「元気長寿者」の「元気」に関わるのが何かを考える上で、大事なことと思われる。グループホームなどでは、時間がかかっても、利用者が職員とともに家事を行う施設がある。それは、長年続けてきた習慣を継続させることが、利用者の「元気」につながるという理由からである。
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以上、春日キスヨ氏の近刊『百まで生きる覚悟~超長寿時代の「身じまい」の作法』(光文社新書)をもとに再構成しました。元気なうちにどのように「身じまい」の支度をすべきか、またそうした文化をいかに構築すべきかを明らかにします。
●『百まで生きる覚悟』詳細はこちら