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日本の聖地を行く/奈良・大神神社「御神体の山」に登頂

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.02.26 16:00 最終更新日:2019.02.26 16:00

日本の聖地を行く/奈良・大神神社「御神体の山」に登頂

 

 日本の各地には数多くの聖地が存在している。近年では「パワー・スポット」ということばが生まれ、若い人たちを中心に関心を集めているが、パワー・スポットの多くは従来なら「聖地」と呼ばれていた。


 そんな日本の聖地を、宗教学者の島田裕巳が旅をする。

 

 

 

 日本の代表的な聖地を選ぼうとした際、大神神社のことがまず最初に候補にのぼった。大神神社の歴史は古代にまで遡る。その創建は紀元前のこととされている。もちろん、古代のことであるから、創建のたしかな年代を定めることは難しい。

 

 だが、大神神社のことは『古事記』や『日本書紀』といった「記紀神話」にも登場し、相当に古い時代から存在したことは間違いない。

 

 何より重要なのは、その神社としての特殊なあり方である。通常の神社では、拝殿の奥に本殿があり、その本殿には「ご神体」が祀られている。

 

 ところが大神神社の場合、拝殿はあっても本殿はない。本殿のあるべき場所には三輪山があり、この山全体がご神体とされている。三輪山は神の宿る「神体山」なのである。

 

 現在の拝殿は、切妻造に千鳥唐破風の大きな向拝のある堂々とした建物である。これは江戸時代の前期、寛文4(1664)年に徳川家の4代将軍家綱が造営したものである。重要文化財に指定されてはいるものの、近世の建物であり、それほど古くからのものではない。

 

 拝殿からは見ることができないが、その奥には「三ツ鳥居」と呼ばれる大神神社独特の鳥居がある。それは一番上の笠木が反っている明神型の3つの鳥居を組み合わせたもので、この形式自体が「三輪鳥居」と呼ばれる。

 

 この三ツ鳥居の先は「禁足地」とされ、足を踏み入れることが禁じられている。禁足地は垣根で囲われ、その旨を記した立て札もあり、そのなかへの立ち入りを拒んでいる。

 

 大神神社は「三輪明神」と呼ばれることもあるし、「三輪神社」と表記されることもある。10世紀のはじめにまとめられた『延喜式神名帳』に記載された神社は「式内社」と呼ばれるが、大神神社もその式内社に含まれる。

 

 しかも、大和国(現在の奈良県)内にある神社の中心となる一之宮で、中世に定められた国家の有力な神社、22社のうち中7社の一つに数えられている。

 

 明治以降は官幣大社の社格を与えられた。大神神社が古代から現代まで大和国の中心的な神社としての地位を保ってきたことは間違いない。


 
 現在では、三輪山全体がご神体とされているわけだが、大神神社が誕生した最初の時点からそうした信仰が成立していたわけではなかった。

 

 三輪山の山中には、神の依代となる磐座が存在しており、当初はこの磐座で祭祀が行われていたと考えられる。

 

 鎌倉時代、嘉禄2(1226)年の『大三輪鎮座次第』では、「当社古来宝倉無く、唯三箇鳥居有るのみ」と記されている。この文書は、この時代においては、三ツ鳥居があっただけで、本殿はおろか拝殿さえなかったことを示している。

 

 さらに遡って、平安時代の歌学書『奥儀抄』には、「このみわの明神は、社もなくて、祭の日は、茅の輪をみつつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」と記されている。

 

 岩の上とは磐座の上をさし、3つの磐座に茅の輪をおいて祭祀が営まれたことを伝えている。ここでも、社(殿)がないことが強調されている。拝殿さえないのが古来の形態だった。三ツ鳥居は、3つの茅の輪が発展したものと考えられる。

 

 なお、明治6(1873)年には本殿を建てる計画がもちあがったが、時の教部省がそれを禁じたという。もし本殿が建っていたら、山をご神体とする大神神社の独自性は失われていたことだろう。

 

 三輪山の禁足地に足を踏み入れることはできないものの、山頂近くにある高宮神社を参拝することは許されている。その途中で、こうした磐座を訪れることもできる。

 

 山に入る者は狭井神社の拝殿で入山料を支払って、参拝証となる木綿襷を受け取り、それをかけて自ら御幣をもって御祓いをし、それから登攀していく。山頂まではおよそ2kmである。三輪山の標高は467.1mで、狭井神社が80mのところにあるので、400m近くの高さを登ることになる。

 

 往復に要する時間は2時間から3時間ほどとされているが、私たちが登ったときには、帰りにどしゃ降りの雨に降られ、下がぬかるんだため、下山にはかなり苦労した。それでも、日曜日ということもあり、登山者はかなりの数にのぼった。

 

 山頂にある奥津磐座は縄で結界されているが、その縄の外側にも大きな岩があり、磐座とされるところだけが特別なものとは思えない。

 

 では磐座で、どういった祭祀が営まれていたのであろうか。


 祭祀の実態を明らかにしてくれる直接の資料や情報は存在しない。

 

 考古学的な資料については、昭和30年代に三ツ鳥居の工事が行われた際や、禁足地の脇で水管の敷設工事が行われた際に、子持ちの勾玉や土器の破片などが発見されており、禁足地内の祭祀が行われた場所の下には大量の遺品が残されているものと思われる。だが、当然にも発掘調査は許されていない。

 

 ただ、三輪山への登山口がある狭井神社の東北に、山ノ神遺跡というものがある。これは三輪山の西麓にあたり、明治より前には神域に属していた。

 

 だが、明治になって神域から外れ、大正7(1918)年に周囲を蜜柑畑として開墾する作業が行われた際には、多数の遺物が発見された。

 

 残念なことに、そのうち多くのものが持ち去られてしまったが、県が発掘したものなどが残されている。そのなかには、小形銅鏡、碧玉製曲玉、水晶製曲玉、鉄片、滑石製臼玉、管玉、双孔円板、滑石製板曲玉、剣状石製品、子持勾玉のほか、土製高杯、盤、杯、臼、杵、柄杵、匙、円板、箕、案(台)などが含まれている。

 

 このなかには、臼や杵など実用的なものも含まれており、すべてが祭祀に使われたとは考えられない。柄杵など酒の醸造に用いられたと推測される道具もあり、大神神社の祭神が酒の神として伝えられていることと関連する。神に作物や酒を供えて祭祀が行われた可能性が高い。こうした祭祀は、弥生時代にはじまり、奈良時代まで続いたものと思われる。

 

 これは、古代においては磐座が祭祀の中心だったことを示している。ところが、拝殿が建てられ、禁足地が定められ、山全体が神体山とされるようになることで、磐座での祭祀は行われなくなった。

 

 

 以上、島田裕巳氏の近刊『日本の8大聖地』(光文社知恵の杜文庫)から再構成しました。日本の聖地の知られざる謎に迫ります。

 

●『日本の8大聖地』詳細はこちら

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