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古賀稔彦と柔道で競った元警官、安納芋農家を兼業で継ぐまで

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.03.07 11:00 最終更新日:2019.03.07 11:00

古賀稔彦と柔道で競った元警官、安納芋農家を兼業で継ぐまで

 

 強い甘味と、こした餡のような食感が評判となり、安納芋がブームになったのは、7年ほど前のことだ。安納芋は、現在全国各地で生産されているが、もともとは種子島の特産物。

 

 熊野恒次さん(53)の実家は、種子島で安納芋を生産する農家。熊野さんは、神奈川県で安納芋の卸売業、販売業などを営む。だが、そこに至る経歴は変化に富んでいる。

 

 

「1歳上の兄がいて、2人とも種子島で小中高と柔道をやっていました。兄も私も、鹿児島県で優勝してインターハイに出場し、兄弟連続が珍しいと、話題になった。

 

 兄は高校卒業後に警視庁へ。後を追うように私も警視庁に入った。兄弟で警視庁というのも珍しく、『熊野兄弟』としてかわいがってもらいました。

 

 柔道の階級は、社会人になってからは71kg以下級。同じ階級で当時強かったのは、2歳年下の古賀稔彦選手。畳800畳の警視庁武道館で、朝から晩まで練習。それを8年ぐらいやりました」

 

 警視庁では20歳から21歳までの2年間、逮捕術の稽古をした。才能があったのか、強かった。逮捕術の全国大会は、各都道府県警察の代表5人による団体戦。22歳のときに警視庁代表に選ばれ、優勝して警視総監賞をもらった。

 

「逮捕術は、防具をつけてひたすら殴り合う競技で、柔道よりはるかにワイルド。素手と道具使用とに分かれるのですが、私がやったのは素手。

 

 素手対素手と、素手対短刀の2種あって、後者が得意でした。短刀は木刀を小さくしたようなもので、それを使って突く。短刀をかわし、相手を捕まえ、投げて倒す。負ける気がしなかった」

 

 その後、柔道を再開し、五輪選手と一緒に練習した。警察署には、柔道と剣道の指導者が1人ずついる。熊野さんは柔道の指導者だった。23歳のときに、柔道の助教試験に一発で合格。

 

 必要とされる仕事のほかに、努力次第では教師、師範と昇級できる。師範は階級でいえば警部、主席師範になれば警視である。だが、31歳のときに、荏原警察署勤務を最後に退職する。それが大きな転機となった。

 

「何か商売をやりたいと思うようになりました。当時は結婚して、子供が生まれたばかり。女房にはまず反対された。兄に相談したら、お前の自由だから好きなようにやればいい、と言われました」

 

 退職金が出ると全部つぎ込んで、新宿の歌舞伎町でスナックを始めました。警視庁やNTT、自衛官など、堅い職業の人が来て、まわりが羨ましがるほど客が入った。

 

 ところがみんな酒をものすごく飲む。飲み放題にしたのが大失敗でした。客が入るほど借金が膨らみ、4年ぐらいで店を閉めました。

 

 それからは生活と借金返済のために、朝の2時から夜の8時ぐらいまで、百貨店向けの荷物の仕分けと配達の仕事を3年続けた。その後、縁があっておこわを作る工場に入りました」

 

 おこわ作りの責任者として6年。その間に、おこわの研究を重ねて独立した。相模原市でスナックを経営している伯父に頼んでキッチンを借り、売るあてもない、おこわを毎朝作った。

 

 それを持って、町田市で売ってくれる店を探した。やがて委託販売の店が少しずつ増え、銀行勤めを続けていた妻が資金を提供してくれて、座間市に小さな店を出した。

 

 3回移転したが、その都度、店は大きくなった。そのうち祭りやイベントの出店依頼が来るようになり、商売が軌道に乗った。

 

「7年前、安納芋がブームに。父が薩摩芋を作っていましたので、安納芋も作ってもらい、こちらで売ったのです。いまでは、年間11tの商いになった。イベントも大型マンションからの依頼が多くなり、チームを作って、お客様のさまざまな要望に対応しています」

 

 5月には店舗兼事務所を改造して、「鶏種子」という焼き鳥と刺身の店を開く。焼き鳥は銀座の名店の職人に学んだ。しかし……。  

 

「高齢の父親の代わりに、安納芋の生産をおこなっています」

 

 島で過ごす時間が長くなる。店の経営、安納芋のさらなる普及など、やりたいことはたくさんある。だが、天性のガッツに明るさ、旺盛な事業欲がある。熊野さんなら難なくこなすにちがいない。

 

(週刊FLASH 2019年3月12日号)

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