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1964年の東京五輪「赤と白のユニフォーム」に資生堂が貢献

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.05.04 16:00 最終更新日:2019.05.04 16:00

1964年の東京五輪「赤と白のユニフォーム」に資生堂が貢献

撮影:幸田大地

 

 日の丸の赤には正解がない。諸外国の中には、マンセル値やRGB値といった客観的な指標を用いて国旗の色を定めている国もあるが、日本の場合、そうした細かい規定は存在せず、それゆえ、しばしば、日の丸の赤をどのような赤にすればよいかが議論されてきた。

 

 絵の具のパレットで試してみると分かるように、同じ赤でも、ほんの少し他の色みを加えただけで印象が様変わりするから、些末なようで、実は大きな問題なのだ。

 

 

 1964年1月4日の『読売新聞』にはこの問題をめぐる興味深い記事が掲載されている。秋には東京オリンピックが開催されるというのに、IOC加盟111カ国中なかなか国旗のデザインが確定しない困った国が一つだけ残されているという内容である。

 

――どこです。そんな国は?
「日本です。日本」

 

――日本は日の丸ときまっているでしょう。
「それではうかがいますが、日の丸ってどんな旗ですか?」

 

――歌にあるじゃないですか。“白地にあかく日の丸染めて”。
「ではもう一つおききしましょう。“あかく” というのはどんな色でしょうか?」

 

―― “あか” は “あか” でしょうが。
「とんでもない。ひと口に青色といったって45種類からの青があるんですよ。“あか” といっても赤、紅、緋、朱とさまざまでしょう」

 

 このインタビューに答えているのは、東京オリンピック組織委員会の最年少職員(当時)として国旗担当職員を務めた吹浦忠正である。

 

 日の丸の赤はどのようにして決定されていったか。

 

 吹浦氏によれば、資生堂は、当時、約2000本の口紅を開発しており、実際に商品化されていたのはそのうちのごく一部だったが、資生堂の研究所に行くと、微妙にニュアンスの異なる「赤」の色票が壁一面に貼られていたという。

 

 それだけの口紅を開発しているということは、それだけの赤い色を再現する方法を知っているということである。化粧品メーカーである資生堂が東京オリンピックの国旗の仕事に携わることになったのはそのためだった。

 

 一方、日本色彩研究所も日の丸の赤の研究を進め、多くの日本人が思い描く「日の丸の赤」がどのような色であるかを明らかにしつつあった。

 

 全国の一般家庭を無作為に回り、そこにあった日の丸を回収し、回収された500枚の日の丸を分析した結果、「日の丸の赤」の平均値はマンセル値という方法で表される「8R4.5/15.5」の赤であるということになった。

 

 こうした研究が進められている最中、「日の丸の赤」の正解を求めて吹浦氏のもとを訪ねた人物がいる。1964年の東京オリンピックで赤と白のユニフォームをデザインした望月靖之氏である。

 

 吹浦氏はこう話す。

「親父さん(望月氏)は、『日の丸の赤にしたい』と言っていました。一応、資生堂と日本色彩研究所の研究結果を伝えて、1963年にやっと国旗のサンプルができてきたので、その赤い生地も渡しました。夏頃だったと思います。

 

 でも、開会式で出てきたのは僕らが使った赤とはまた違う赤でしたね。開会式の式典本部の一番前で見ていて、はっきり言って、本当に、すごい色だと思いました。

 

 今まであんまり日本になかったような、『紅白』とはいえ、すごく工夫したなと思いましたよ。僕らが使った赤よりもだいぶ鮮やかでした。鮮やかでした。かなり研究したんだろうなと思いました」

 

 吹浦氏は力を込めて二度「鮮やかでした」と言った。

 

 1964年10月10日、日本で初めて開催された第18回オリンピック競技大会で、続々と入場する各国選手団。その最後に、赤と白の上下に身を包んだ日本選手団が姿を現した。日の丸を彷彿とさせる鮮やかなコントラストは、いまも日本人の記憶に残っているのだ――。

 以上、安城寿子氏の新刊『1964東京五輪ユニフォームの謎 消された歴史と太陽の赤』(光文社新書)をもとに再構成しました。気鋭の服飾史家が、闇に葬り去られようとした赤いブレザー誕生の歴史を発掘します。

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