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日本のアニメ文化、起源のひとつは「テレビCM」だった

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.07.29 11:00 最終更新日:2019.07.29 13:07

日本のアニメ文化、起源のひとつは「テレビCM」だった

 

 1953年2月1日、NHK東京テレビジョンが開局して日本のテレビ放送の歴史が始まった。半年後の8月28日には初の民間テレビ放送局・日本テレビ放送網も開局。2年前に始まっていた民放ラジオとともに本格的な民放時代がやってきた。それは、コマーシャル・メッセージ(CM)と呼ばれる放送広告のスタートでもあった。

 

 最初の頃はテレビの視聴者が少なく、1957年までテレビ受像機の世帯普及率は10%にすら満たない。そもそも視聴できる地域が少なかったことや、受像機の値段が高かったことが背景にある。盛り場には街頭テレビが置かれ、喫茶店や電器屋の店頭で見られることもあったが、その数はかぎられていた。

 

 そんな中で番組もCMも試行錯誤を繰り返していた。CMについてはアメリカを参考に研究が進められ、効果的なコマーシャル・メッセージの手法がいくつも開発されていった。

 

 

 たとえばスタジオや中継場所からダイレクトに商品の紹介をおこなう生コマーシャルがある。また、番組の途中で文字テロップを画面に出すスーパーインポーズCMもあった。

 

 そしてもうひとつ、ムービーフィルムによる動画のCMがあった。これをコマーシャル・フィルム(CF)と呼ぶ。

 

 動画は現在のテレビCMのほとんどすべてを占めるが、初期には数あるCM方法のひとつにすぎなかった。制作費用が高く誰でも気軽に利用できたわけではないが、効果が強く長期的に利用できるので重宝された。

 

 当時のハウツー本や専門誌をみると、CFはたいてい実写とアニメに分けて議論されている。必要となる技術や機材が実写とアニメでかなり異なるからだ。アニメという略称はまだなかったので、「アニメーション」と正確に言うか、「漫画」や「動画」などと呼ばれていた。

 

 日本のアニメーション制作は1910年代から本格的に始まっている。娯楽映画、教育用映画、宣伝用映画、芸術映画などさまざまなジャンルで制作がおこなわれていたが、市場規模が小さくあまりもうかっていなかったという。

 

 戦後も同様の状態が続いていたが、そこにテレビ開局の話が舞い込み、アニメの高いニーズを感じ取った関係者たちは積極的に営業を仕掛けたり、新しい会社を立ち上げたりして、テレビの仕事を受注する体制を整えていった。

 

 CFはもちろん、番組のオープニング映像などいろいろな業務をテレビから請け負うようになっていく。

 

 営業努力の成果もあり、また親しみやすい映像が評判をよび、草創期のテレビCMではアニメを使うことが多くなった。アーカイブを見ていくとたしかにアニメが多いという実感はある。具体的に何%くらいかと言うのは難しいが、最初から最後までアニメで作られたものが3割ていど、部分的な視覚効果にアニメを用いたもの(現在のCGのような使用法)を含めれば7割近くあるのではないかと思う。

 

 そんな人気者だった最古のアニメCMをいくつか見てみよう。たとえば三菱電機「三菱ミキサー」(1955年、60秒)。コダーイ作曲「ハーリ・ヤーノシュ」の軽快なリズムに乗って、ミキサーの擬人化キャラ・三菱ミキちゃんがりんごジュースやぶどうジュースを作って坊やとおじいちゃんに届けるアニメである。

 

 この映像は昔のディズニー映画のように全身がなめらかに動くいわゆる「フルアニメーション」である。コマ送りで見ると1秒間に12回も絵が切り替わっていて、セルをたっぷり使ってぜいたくに作られていることが分かる。

 

 三菱電機が一流の広告主だからそんなぜいたくができた、というよりは、当時の日本ではそれ以外のセルアニメの作り方がなかったのである。

 

 日本のセルアニメ制作はやがて、しゃべる時は口だけ、歩く時は足だけ動かすようなエコノミーな手法が主流になっていく。これを「リミテッドアニメーション」と言うが、当時はまだリミテッドの発想がなく、フルアニメが普通だったのだ。

 

 アーカイブを見たかぎりでは、1958年4月に制作された寿屋(現・サントリー)のトリスウイスキーのCMで、キャラクターのアンクルトリスの動きが完全にリミテッドになっていて、このあたりが日本のリミテッドアニメの起源だと思われる。

 

 もっとも、アンクルトリスは非人間的な動きによってモダンで前衛的な効果を狙ったもので、エコノミーというわけではないが、その後の日本のアニメCMはエコノミー的な意図を含んだ簡易な動きが少しずつ増えていった。

 

 逆に言えば、日本のアニメCMはさかのぼればさかのぼるほどゴージャスなフルアニメーションになっていくのである。

 

 ミキちゃんは映像プロダクション「TCJ」の制作である。のちに「鉄人28号」や「エイトマン」などを手がけ、日本のテレビアニメを牽引したTCJは、1952年に設立して1954年からテレビCMの世界に参入した。もともとアニメに強く、すぐれたアニメーターたちが多く在籍していた。

 

 当時の日本のアニメーション技術がどのくらいのレベルにあったかは、東映の劇場用映画などからすでに詳しく知られてはいたが、テレビCMの世界でもそれなりの技術レベルがあった。

 

 もちろんすべてのアニメCMがすばらしかったわけではなく、手足の動きが不自然だったり、いわゆる作画崩壊のような状態だったりするものもある。

 

 テレビの発展とともに仕事はどんどん増えていくので、時間が足りずあわてて作ったものもあるだろうし、キャリアの浅い若手に任せたものもあるだろう。

 

 しかしおおむね、今日の日本アニメのルーツと呼ぶにふさわしいクオリティだと私は感じている。アニメ文化の起源のひとつは間違いなくテレビCMにあった。

 

 だが、アニメCMは1960年代初頭まで多く、1960年代中盤から急速に数を減らしていく。考えられる背景はふたつある。

 

 第1に、1963年に「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などの連続テレビアニメが始まり、CM制作の現場からアニメーターが流出した可能性である。そちらが忙しくてCMどころではなくなったということだ。

 

 中小のプロダクションからアニメーターたちが大手に移籍する(引き抜かれる)ことも珍しくなかったという。アニメ番組の急成長が原因で、CMアニメが人材不足に陥ったという側面はおそらくある。

 

 もうひとつの背景は時代の変化だ。高度成長が本格化し、テレビ産業の規模が拡大してCMにかかる予算が高額になっていくと、これまでのように明るく楽しければ何でもよい、というわけにはいかなくなる。

 

 ターゲットを明確に定め、消費者心理を読んでメッセージ内容を詰めていくと、CMは視聴者のリアルな日常生活に寄り添いつつ、消費の楽しさを具体的に表現していくようになるから、おのずと実写が増える。そうしてアニメCMはその役割を終えていったのである。

 

 

 以上、高野光平氏の新刊『発掘!歴史に埋もれたテレビCM 見たことのない昭和30年代』(光文社新書)を元に再構成しました。ナゾだらけの草創期テレビCMの実態を、CM史研究の第一人者が解き明かします。

 

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