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名経営者は「焼け跡」で何をしたのか/サントリー
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.08.19 06:00 最終更新日:2019.08.20 17:48
終戦直後の大阪は、いたるところ瓦礫の焼け野原だった。1945年3月13日の大空襲では、274機のB29が計173トンの焼夷弾を投下、4000人近い死者が出ている。
戦前から「赤玉ポートワイン」や初の国産ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を発売していた寿屋(現サントリー)も、主力の大阪工場は灰燼に帰し、この火災で社長の鳥井信治郎(当時66)も顔面に火傷を負っていた。
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だが、持ち前の元気は衰えず、逆に「これから日本はよくなりまっせ」と社員を激励、再興に向けてエネルギッシュに走り回っていた。
鳥井は進駐軍にもサントリーウイスキーを1本下げて「これを買うておくんなはれ」と売り込みに行っている。
これを機に同社はウイスキーを進駐軍に正式に納入するようになり、納入品を飲めない若い米兵は寿屋本社に押しかけ、「サントリーを飲ませろ」と騒ぐほどだった。
焼け跡の街では密造の「カストリ」や「バクダン」といった粗悪な酒が出回っていた。「安価でもきちんとしたウイスキーを提供できないか」。それが1946年4月の「トリスウイスキー」の発売につながった。
このころから、サラリーマンが気楽に飲めるスタンドバー「トリスバー」が全国に普及しはじめる。まだ海外旅行が高嶺の花だった1961年には「トリスを飲んでハワイへ行こう」というキャンペーンも展開された。
その後、高度成長とともに、鳥井が戦前から夢見たウイスキーの時代が本格的に開かれていく。
「やってみなはれ」
自らの言葉を、鳥井は焼け跡の大阪で自ら実践してみせ、成功を遂げたのだ。