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視聴率40%!TBSが生んだ日本初の「お天気お姉さん」いまだから話せる秘話/女子アナ日下千帆の「私にだけ聞かせて」
芸能・女子アナFLASH編集部
記事投稿日:2023.03.19 16:00 最終更新日:2023.03.19 16:00
美智子さまのご成婚で、日本にテレビが一気に普及した1959年4月、今井登茂子さんはTBSの6期生として入社され、アナウンサーになりました。今井さんは、学生運動や沖縄返還といった昭和のさまざまな事件、イベント、スポーツなどを現場からわかりやすく伝えるオールラウンドなアナウンサーでした。
いまでは毎日、当たり前に見ているテレビの天気予報ですが、実は、今井さんこそが、日本初のお天気お姉さんだったそうです。当時、視聴率40%という驚異的な数字を記録し、天気情報を番組として定着させた実績をお持ちです。
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今井さんは東京都出身。立教大学文学部卒業後、TBSに入社。1988年には、ゴールデンマイク賞を受賞。独立後は “言葉による自己表現” の重要性を広めるため、「とも子塾」を設立し、企業研修や朗読会主催などで活躍の場を広げています。話し方講座の教え子には、安藤優子さんをはじめ有名アナウンサーや女優、第一線で活躍するビジネスマンも多く、その数は軽く1万人を超えているそうです。
――なぜ、アナウンサーを目指されたのですか?
「ちゃんと稼いで自立するため。当時は、女性が自立できる仕事はほとんどなく、CAやアナウンサーは大人気でした。ストッキング一足を買うのも高価な時代で、私は親からの援助もなかったので、ソックスを履いて受験に行きました(笑)」
――当時のアナウンサー試験はどのような内容でしたか?
全国から数千人集まるアナウンス試験には、筆記やカメラテストを含めて、6次選考までありました。フリートークの試験は、3種類の家電が並べられ、1つを選んでPRしなさいというユニークなものでした。私は炊飯器を選んだのを覚えています。
その年は、東京オリンピックに向けて、通常より採用人数が多く、男女合わせて10数人のアナウンサーが入社しました。採用試験の内容は、局によって多少、異なるようです。あるテレビ局では、台の上に乗ってスカートの裾をたくし上げさせられたと聞いています(笑)」
――日本初のお天気お姉さん誕生の裏話を教えてください。
「営業が、お天気番組は売れると思ったのではないかしら。スポンサーがついて、毎週土曜日21時56分からミニ枠のお天気番組が始まり、構成もまかされました。私には、男性アナウンサーの横でニコニコする役はできなかったし、女性が意見を言うと降板させられる時代だったので、ちょうどよかったと思います。気象協会のなかに小さなスタジオを作って、ディレクター業務もこなしていました。
その前の21時から、野際陽子さんが出演している大人気の『キーハンター』が放送されていたので、私が出たらすぐにチャンネル変えられては困ると、冒頭の30秒で視聴者をつなぎとめる共感のコメントを必死に考えました。一週間、いつもそれで頭が一杯でした。
桜の枝を手に持って開花情報を伝えたり、季節の話題や歳時記でつなげられないときには、『今日はエジソンの誕生日です』なんて話もしました。30秒で全国民をこちらに向けようという努力が実を結び、高視聴率を得ることができました。お天気番組で視聴率40%の記録はいまだに破られていません。
その後、日曜日の同じ時間にも枠が増え、さらに平日もやってくれと言われたのですが、『それでは恋人も作れない』と言ってお断りしました(笑)」
――歴史的なニュースの現場に何度も立ち会われてきたと思いますが、もっとも印象に残っている取材は何ですか?
「1960年6月、安保闘争が激しくなり、活動家の学生たちが国会構内で警官と激突したときですね。東大生の樺美智子さんが亡くなった現場のすぐ近くからリポートしていました。釘を打った角材を武器に持った学生たちが暴れていて、一緒に行った男性記者は、私をおいて先に逃げてしまいました。あの日、どうやって家に帰ったのか、まったく思い出せないほど、恐ろしい経験でした。
当時は “デンスケ” という、15分しか録音できない大きな録音機を使ってリポートしていましたが、夢中になって取材し、テープのリールが終わっていても気づかず、途中から何も録れていなかったというミスがあり、よく怒られましたね」
――では、いちばんの失敗は何でしょうか。
「三島由紀夫事件のときです。生放送の前に、共演者の医師と社食で食事をとり、エレベーターでスタジオに向かう途中、ADから『三島由紀夫が切腹しました』と報告がありました。医師は『切腹では死なないから大丈夫』とおっしゃいましたが、『首が転がったそうです』というADの次の一言に驚愕し、『え?』と聞き返すのがやっとでした。
その瞬間、エレベーターの扉が開き、動揺を抑えきれないまま、生放送へと突入しました。番組MCとして、途中までは問題なく進行していけたのですが、最後に予想外のNGを出してしまいました。
その日、紹介する商品は赤ちゃん用の湯たんぽでした。柔らかいゴムカバーのついた湯たんぽを持ち上げた途端、オンエア前に聞いた『首が転がった』という言葉が思い出され、生首を抱えている気分になってしまったのです。一瞬にして進行内容が吹っ飛んでしまい、カメラ割りも忘れて、1カメを凝視したまま、能面のような無表情な顔で商品の特徴をしゃべり続けてしまったのです。
これが私の初のNGになり、メーカーの社長に謝罪に行ったことを覚えています。この経験から、心は声と言葉にリンクしているということを学びました。おかげで、感情と声と言葉のトライアングルについて、いま受講生たちに身をもって教えることができるようになりました」
――当時といまで、アナウンサーの在り方は変わっていますか?
「私が入社した頃は、アナウンサーは正確な日本語を継承する役目とされていました。入社して10年もすると、テレビ番組のバラエティ化が目立つようになり、アナウンサーのNGが面白おかしく取り上げられるようになりました。その頃からアナウンサーの役割は変わり、タレント化が進んだように思います。
アナウンサーという仕事は、言葉だけでなく、身だしなみや所作、全体から醸し出す雰囲気などが大切で、人間性を磨かないと務まらないものです。
最近は、ニュースや天気予報の伝え手がアナウンサーでない場合も多いようですが、ウクライナのニュースを読むのに、だらしなくおくれ毛を垂らしたり、発声トレーニングのできていないキンキンした高い声で伝えているのを見ると、品格がないと思ってしまいます」
――出演番組を減らしてまで、「とも子塾」に力を入れたそうですね。それは、なぜでしょうか?
「日本人の感受性の豊かさを残していきたかったからです。40代は、そのためにずっと勉強をしていました。そして、50歳のときに『とも子塾』を立ち上げたのです。今後は、聞き上手になることも教えていきたいですね」
――話し方講座以外にも、ご活躍です。
「1997年から日経新聞でマナーに関するコラム『マナーのツボ』を連載しています。これまでの著書は50冊を超え、今年1月には『さりげなく品と気づかいが伝わる ちょい足し言葉帳』(朝日新聞出版)が出版されました」
――86歳とは思えないほど、お美しくてエネルギッシュですね。
「来年の誕生日にはイケメンとジルバを踊ろうと思っています(笑)。年齢を重ねて行動範囲は狭くなっても、行きたいところに行き、会いたい人に会う、やりたいことをやると決めています。今日一日をフルに生きていきたいです。年だからと縮こまらず、深く高く生きることにしています。横に移動できる範囲が狭まれば、空を見て写真を撮り、その写真に言葉や音楽をつけて楽しんでいます」
■美しく元気に生きるための3カ条
(1)自分のやりたいこと(人生の目的)を持つ
やりたいことがあればいくつになっても強い
(2)人間である以上、言葉を磨け
自分の言葉を持つ人は、奥行きも深くなる
(3)気づいたときから “貯筋” を始めよう
筋肉は一日でできない
1968年、東京都生まれ。1991年、テレビ朝日に入社。アナウンサーとして『ANNニュース』『OH!エルくらぶ』『邦子がタッチ』など報道からバラエティまで全ジャンルの番組を担当。1997年退社し、フリーアナウンサーのほか、企業・大学の研修講師として活躍。東京タクシーセンターで外国人旅客英語接遇研修を担当するほか、supercareer.jpで個人向け講座も
( SmartFLASH )