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【『タモリ倶楽部』終了】マニアック出演者が語る思い出 3回出演したペリー荻野氏「初出演時は泥酔しました」
芸能・女子アナFLASH編集部
記事投稿日:2023.03.31 06:00 最終更新日:2023.03.31 06:00
タモリ(77)が司会を務める、深夜の名物バラエティ番組『タモリ倶楽部』が、3月31日に最終回を迎える。
1982年10月に放送を開始し、2022年で40周年を迎えた同番組では、さまざまなマニアックなテーマを取り上げてきた。この番組に過去3回、まったく違うテーマで出演したという稀有な経験を持つのは、コラムニストのペリー荻野氏。『タモリ倶楽部』との不思議な縁を、荻野氏はこう振り返る。
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「私は過去40年の放送の中で、3回出演しています。古い記憶なのですが、最初はたしか、2003年で、『ホッピーが10倍うまく飲めるTV』というテーマ。ホッピーがいまほどメジャーではない時代で、共演者は浅草キッドさん、なぎら健壱さんでした。私は当時、周囲の業界人と『ホッピー党』を名乗り『ホッピーでハッピー』という本を書いたので、呼ばれたのだと思います」
ペリー氏は、その収録で泥酔してしまった。
「世田谷区内のスナックが撮影場所だったんですが、当時、番組は2本撮り。前の収録が終わらず、タモリさんの到着が遅れたんです。出演者はみんなでホッピーを飲んで待っていたので、収録開始時にはベロベロ。そこに飄々とタモリさんが現れたのが、印象深かったですね。なんというか、本当にヒョコッと現れて、酔っている私たちを『仕方ない人たちだな~』と、りきまずに見てくださっていた印象があります。酔い過ぎて、収録内容は記憶にありません。たしか『ホッピークイズ』みたいなものがあったのですが、誰もまともに解答できないほど、酔っていました」
2回めの出演も、2003年。「生誕25周年記念 インベーダーに侵略された人々」という企画だ。
「私が名古屋出身で、これも当時『名古屋帝国の逆襲』という本を書いていたので、お声がけが……。『スペースインベーダー』の裏技『名古屋撃ち』をする、ということで、私は『できないですよ』と伝えたのですが、なぜかそのまま呼ばれました。そういった人選のゆるさも『タモリ倶楽部』の魅力のひとつだと思います」
そして2011年、「ちょんまげの歴史」で3回めの出演を果たす。歴史に関する著書の多いペリー氏にとって、初めて“本業”ともいうべきジャンルでの出演依頼だった。
「江戸時代の日本の、ちょんまげファッションについて語るという企画でした。大好きな歴史の話ができるという事で、本当にうれしかったですね。
結髪さんという、日本式カツラの専門家の方に作っていただいたカツラをかぶって出演するということで、事前に頭のサイズを測って、番組スタッフに送りました。カツラは本格的で立派なのに『衣装は普通でいいです』と言われて、私服のパーカーにちょんまげ姿で出演しました。この番組らしいと思いましたね」
ペリー氏は、番組の魅力をこう分析する。
「タモリさんの飄々とした姿と同様に、私のような人にもヒョイッと依頼が来て、ヒョイッと収録される。何年、間隔をあけて出演しても、タモリさんのたたずまいには、本当に変化がない。オープニングも、道端でふと、始まるでしょう。脱力というよりも、最初から力を入れていない感じ。40年間で何もバージョンアップしないところがいいんです」
マニアックなネタそのものより、それを偏愛する人を見ることも、番組の魅力だという。
「毎回、あのテンションで好きなことを楽しんでいる人の姿を見るのが、いい番組なんです。金曜の夜、お酒を飲みながら、本当にゆったりと見て、笑っていましたね」
番組は終了しますが、『凄い』といわれるのは、あの番組の本意でないと思うんです。40年、すごいことは何もやっていない。それで続けたことが、じつは、言いたくないけど『すごい』んですよ。いまは地上波では難しくなったエロやパロディも、挑戦的に構えるのではなく、気楽に笑える塩梅でやっていました。
40年の歴史があるのに、総集編も再放送もなく、DVDも書籍もない。テレビやサブカルの歴史的には『見た我々が覚えているしかない』という、稀有な番組だと思います。
終了はめちゃくちゃ寂しいですが、騒がず、静かにみんなが忘れていく。それが、さらっと終わるこの番組の雰囲気にふさわしい気もします」
まるで“空気”のような存在だった『タモリ倶楽部』。金曜の夜の“空気”が変わってしまうのは、残念な限りだ。
( SmartFLASH )