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時の首相が勝手に解散するくらいなら、毎年10月に総選挙をやるのが合理的や!【泉房穂の「ケンカは勝つ!」第8回】

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.07.01 06:00 最終更新日:2023.07.01 06:00

時の首相が勝手に解散するくらいなら、毎年10月に総選挙をやるのが合理的や!【泉房穂の「ケンカは勝つ!」第8回】

内閣不信任決議案を提出した立憲民主党の泉健太代表と、不敵な笑みを浮かべる岸田首相。決議案はあえなく否決された

 

 立憲民主党が提出した内閣不信任決議案は、6月16日、与党のみならず野党の一部もこぞって反対、棄権し、あっさり否決されました。しかも、その前日に岸田文雄首相が「今国会での解散は考えていない」と明言したもんやから肩透かしって感じになった。不信任決議案可決、そして解散という、大方のマスコミの予測は大外れだったわけです。

 

 まあ、不信任決議案が否決されるのは、初めからわかっとった。「会期末の年中行事」と言われても仕方ないし、「今の政治はよくないよね」というメッセージ程度の意味しかなかったといえるでしょう。

 

 萩生田光一政調会長は、「不信任決議案提出は解散の大義になる」と言っていましたが、そんなのは方便。だって、「大義」があってもなくても、歴代の自民党政権は、好きなときに解散してきたやん。

 

 

 過去の例を見ても、内閣不信任案が通ったことはほとんどありません。戦後、内閣不信任案は57回出されましたが、わずか4回しか可決されていない。そして前回(1993年)の可決以後、今回の否決まで28連敗中ですわ。

 

 なぜ、これほど野党は負け続けるのか。それは当たり前であって、国民が選んだ衆参両議院の議員が総理を選ぶ仕組みだから、野党が不信任決議案を出しても、よほどのことがなければ多数派の与党が否決する。

 

 それでも、歴史をひもとくと、可決されたことは4回あるのです。

 

 最初は1948年12月23日、第2次吉田茂内閣の「馴れ合い解散」。このときは、可決227、否決130と、歴代最大の票差で不信任案が可決されました。

 

 当時の吉田内閣は総選挙により政権基盤を確立しようとして野党と打ち合わせ、野党が提出した不信任決議案に与党も賛成して可決し、衆議院を解散したのです。要するに与野党がケンカしたのではなく、両者が約束通りに事を運んだんです。

 

 衆議院の解散については、憲法で次のように規定されています。7条では「天皇が内閣の助言と承認によりおこなう」と書かれ、69条では「内閣不信任決議案が可決された場合に、衆議院を解散するか、内閣総辞職をしなければならない」とされています。

 

 このうち、7条解散については、事実上、総理大臣が自分に都合のいい時期を選んで決めることができると解釈されている。ここから、解散権は「総理の専権事項」「伝家の宝刀」と呼ばれるのです。

 

「馴れ合い解散」の当時は、解散は69条によってしかおこなえないという法解釈が主流で、解散するためには内閣不信任案を可決する方法しかありませんでした。

 

 不信任案が可決された2回めの例は、1953年3月14日、第4次吉田内閣の「バカヤロー解散」。吉田首相が国会で社会党議員の追及に対し、「ばかやろう」と漏らしたことで、野党が懲罰動議とともに内閣不信任決議案を提出し、可決され総選挙となった。私も市長時代に失言で問責決議を受けましたが、政治家は発言に気をつけなあきまへん。

 

 3回めは1980年5月19日、第2次大平正芳内閣の「ハプニング解散」。内閣不信任案が可決され、解散となりましたが、与党議員が遅刻して本会議場に入れなかったなど、与野党ともに不測の解散であったことから「ハプニング」と呼ばれるんです。

 

 そして、4回めは1993年6月18日の宮澤喜一内閣での「嘘つき解散」。これは、宮澤首相が、ジャーナリストの田原総一朗氏によるインタビューで「今国会中に衆議院の選挙制度改革をやる」と公約しておきながら、自民党内の意見をまとめ切れず、次の国会へ先送りした。これが「嘘つき」と野党の反発を招き、内閣不信任案を提出。これに自民党内からも造反者が出て可決、解散総選挙が実施されたんです。

 

 こう見てくると、ハプニングが起こるか、総理を指名した多数派の与党が分裂したり造反しない限り、可決には至らないわけです。そして「嘘つき解散」を最後に、不信任決議案可決による解散は、30年間起きていません。

 

 それはまさに、日本が「失われた30年」に入っていったのと同じ時期です。経済成長はせず、給料は上がらず、国民が貧しくなっていった時代と、不信任案が通らなくなった時代とが重なっている。これは単なる偶然ではなく、政治に緊張感がなくなり、マスコミや学者も権力側にくっついていた状況と無関係ではないと、私は思っています。

 

 今は7条解散ばかりですが、これについては、かつて違憲訴訟が起こって最高裁まで争われたことがあります。しかし、「統治行為論」で退けられました。これは「政治の話は政治でやってくれ。裁判所は関与しない」という考え方で、時の権力がやりたい放題に自分たちに有利なタイミングで解散できる後ろ盾になったんです。

 

 戦後、総選挙は28回おこなわれてきました。このうち、衆議院議員の4年の任期満了に伴う選挙は、1976年12月の三木武夫内閣時代の1回だけ。

 

 当時、三木首相は田中角栄元首相による「ロッキード事件」の疑惑追及に積極的でしたが、これに反発する自民党内では解散阻止の声が圧倒的に多く、三木首相は解散権を行使できないまま任期満了を迎えました。要するに、不信任決議案が可決した際を除く23回の解散は、全部、時の総理が勝手にやった「好き放題解散」なんです。

 

 さて、ここからが私の提案。総理に好き勝手に解散させるよりも、総選挙を毎年1回、やればええんやないかと。

 

 時期は10月がいいと思います。10月に総選挙をすれば、たとえば少子化対策の子ども予算や防衛費の増額などについて国民に問い、選挙結果を踏まえて、11月以降に始まる新年度の予算編成に反映できるわけです。だから、毎年10月に選挙をすると決めればいい。それがいちばん合理的やと思います。

( 週刊FLASH 2023年7月11日号 )

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