北海道の士別市温根別町は、道内屈指のヒグマ出没地帯であった。集落の中心部にある「温根別神社」の由来を見ると、「明治36年頃から戸数増加」「昭和2年剣渕村から温根別村として分村」(北海道神社庁のサイト)とあるので、大正期に人口が増えたことが想像される。
ヒグマの人的被害も大正時代から出現し始める。以下に摘記してみよう。
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《去る十日、温根別北十七線鈴木秀助が所要ありて十六線河岸を通行中、傍(かたわ)らの叢中(そうちゅう=草むら)より一頭の巨熊現れ猛然、秀助に飛びかかり重傷を負わせたのを聞き込みたる同村、田薪久吉これを追跡すること五日にして二十四日南十七線青木山にて射止めたり》(『北海タイムス』大正6年4月27日)
《温根別本線六線付近に数日前から猛熊出没、付近農家を襲わんとするので、剣淵村の木村某が六線道路を通行中、熊が徘徊するのを認め、引き返して鉄砲を持参すると、薪挽きに出かけた佐藤某と格闘しているので、直ちに発砲し首尾よく射とめたが、佐藤は両脚に二週間の怪我》(『北海タイムス』大正9年4月16日)
《温根別模範林及び北線方面において(中略)石川信治(四三)は二日午前七時頃、三番山に行ったまま三日朝に至るも帰宅しないため、付近に住む大平善一、矢野利作の両名現場に赴きたるに、信治は自宅を距たる約二百間の箇所にて見るも無惨なる有様にて咬み殺され、雪中には血痕点々とし膝蓋骨の一部露出している騒ぎに一同驚き、(中略)発掘検屍せるに、わずかに胴を残すのみにて内臓全部を喰い尽くされ、あたかも蝉の空殻のごとく惨状目も当てられず》(『北海タイムス』大正12年5月6日)
しかし、真に恐るべき人喰い熊が出現したのは、昭和3年(1928年)のことであった。3年間で2名を喰い殺し、8名に重軽傷を負わせるという未曾有の凶悪熊で、常に1頭か2頭の子熊を連れていた。その獰猛さから役場が懸賞金をかけるほどであった。
■温根別人喰い熊事件(1928年)
雪の降る11月25日の朝8時頃、剣淵村から温根別村へ通じる道を歩いていた2人が畑に出ると、すぐ目の前に1人の女性が倒れ、悲鳴を上げて救いを求めていた。見ると着衣は流血に染まり、その前に1頭の巨熊が座っていた。2人は驚愕して、警鐘を乱打しつつ、住民を集めて現場に戻った。
《婦人は最初熊に傷つけられてから約二十間位、熊に追われつつ逃げた形跡があり、その間は血痕雪に染み、路辺の笹に血潮は飛び散り、頭髪に肉片の付着した着衣布片が付近に散らばり、数個所にややしばらく倒れていた模様であった。
後頭部の頭髪及び皮肉はほとんどなく、右手指右背部に大裂傷あり、また臀部上方にも余程の裂傷あり、身体各所は爪穴で出血甚だしく瀕死状態であった。
婦人は温根別村八線、元屯田兵妻、増永イヨ(五一)で、剣淵市街地へ子供の百ヶ日忌のため僧侶を頼みに単身歩行中であった。イヨは七線風防林付近まで担いで行った時に絶命した》(『北海タイムス』昭和3年11月29日朝刊)
この事件は地元で長く記憶に止められたようで、次のような証言も残っている。
《小学校五年生の頃だったと思うが、近くの松永(筆者注:増永の誤り)のおばさんは、雪の降り始めた頃、温根別市街へ買い物に出かけ急いでいると、道路の曲がり角で突然熊に出会った。おばさんは、とっさに着ていた角巻きを頭からすっぽりと被ってしまった。
と同時に熊は一撃を加えようとしたのか?つかむつもりだったのか?角巻きだけすっぽりと抜かれてしまった。
熊はそのままちょっと行ったが、からっぽである事に気づいて再び襲いかかり、松永さんは瞬時の事とて逃げる間もなく殺されてしまった》(剣淵町教育委員会『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木』所収「開拓の熊の話 小池千代」)
この加害熊は、イヨを襲った後、温根別市街地に現れ、通行中の小学校長妻を背後から襲ったが、幸い軽傷ですんだ。さらに雨竜方面から来た人の話では、その日、ほかに2人の負傷者があり、事実とすれば1日に4人を襲った獰猛な熊で、あるいは手負いの熊ではないかという(『北海タイムス』昭和3年11月27日)。
翌年の夏、今度は温根別北部の山奥で測量隊員4名が襲われる事件が起きた。
《九月二十六日午前八時頃、上川郡多寄村二十九線西八号より約二里の山奥で、雨龍水電株式会社の測量隊四名が三頭連れの巨熊に遭遇し、二名が臀部、内股から肩などに爪をかけられた。二名はようやくのことで虎口を脱し、風連市街地で応急手当を受けたが、他の二名は一時、行方不明となり、熊の餌食になったものと大騒ぎであった》(『北海タイムス』昭和4年8月31日朝刊)
さらに10月、今度は温根別の西、添牛内で別の測量隊員3名が襲われた。
《添牛内御料地の奥地、北海道大学演習林区内で、北辰電気株式会社の測量隊員三名が先月上旬から測量に従事中、突如前方十数間のところに当歳位の仔熊が現れ、続いて物凄い唸り声と共に巨熊が現れて、狼狽する三名目がけて飛び掛かり、二名はその場に打ち倒され辛うじて逃れた。一名は谷川に身を投じて水中深く沈んだ。
大熊はそれと見るよりまっしぐらに谷川へ躍り込み、肩部に爪のカスリ傷を負わせて対岸へ去ったが、恐ろしさに生きた心地もなく、そのまま二時間あまり首から下を水中に浸し、再び襲来のないのを見すまして岸にはい上がり、命からがら部落民に急報した》(『北海タイムス』昭和4年10月10日)
どうやら加害熊親子は、温根別周辺一帯を縄張りにしていたようである。凶悪事件は再び多寄村で発生した。
《上川郡多寄村三十二線の農業堀善蔵は、妻と共に二十三日午前十一時半頃、水田の除草中、突然仔熊を連れた巨熊が現れたので、驚いて逃れようとした妻はたちまち喰い殺され、善蔵は妻を救おうとしたが手に余り、付近の稲乾燥用の架木に登って難を避けようとしたが、熊は追いすがって善蔵を爪にかけて引きずり落とし、顔面その他に負傷を負わせて逃げ去った。付近の人々は善蔵を病院にかつぎ込んだが全治約三週間》(『北海タイムス』昭和5年7月25日)
これらの事件を受け、役場では懸賞金をかけてこの親子熊を追うことにした。
そして7月24日未明、温根別南のイヌウシュベツ山中で、熊狩名人・伊藤勘五郎と和田誠の両名がみごと仕止めた。2人には即座に懸賞金が支払われたという。おそらく子熊を連れていたための排除行動だったのだろうが、恐るべき人喰い熊であった。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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