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ヒグマに喰われ、笹の密林に転がった3つの頭蓋骨無惨、あたりには上着の切れ端、クマの糞【伊皿山人喰い熊事件】

社会・政治 投稿日:2023.07.01 06:00FLASH編集部

ヒグマに喰われ、笹の密林に転がった3つの頭蓋骨無惨、あたりには上着の切れ端、クマの糞【伊皿山人喰い熊事件】

 

 南樺太(現サハリン島の南半分)は、日露戦争後の明治38年(1905年)以降、約半世紀の間、大日本帝国が占領統治した。同島は北海道と同じく大自然の宝庫であり、ヒグマの密生地帯であった。

 

 樺太のヒグマはおとなしく、人間に向かってくることは滅多にないと長らく言い伝えられてきた。しかし、筆者が地元紙『樺太日日新聞』(明治43年~終戦)をほぼすべて閲覧した印象では、決してそんなことはない。

 

 

 冬が長く、夏の極端に短いこの地方では、いったん果実が不作となると、里に下りて見境なく牛馬を喰い殺し、場合によっては人間をも襲った。

 

 樺太庁管轄のため、北海道庁の統計資料に出てこない、従って専門家の間でもほとんど知られていない、樺太における人喰い熊事件はいくつもある。今回はそれを紹介していきたい。

 

 昭和10年(1935年)に起きた伊皿山事件は、南樺太全土を震撼させた人喰い熊事件として広く知られたようである。当時の雑誌から記事を拾ってみよう。

 

《夏の山はキャンプの楽しさと熊の恐ろしさが同じ程度に私の胸に甦って来る。いつか同志五、六人で幌登岳へ上った事があった。(中略)隣のS君が「おいおい」と小さな声で揺り起こす。(中略)がさがさと異様な物音がする。一瞬二人の胸には伊皿山の残虐な熊が浮かんで来た》(『樺太』昭和13年8月号所収、菊地恒一「山の思ひ出」)

 

《近年植物を探って樺太の山野を歩くことになって以来いわゆる「山の親爺」と呼ばれる熊についての話は随所に聴く機会があった(中略)先年西海岸の伊皿山で三人までもその犠牲となった話はいまだ耳新しいことである》(『樺太時報』昭和14年10月号所収、船崎光治郞「熊の足跡」)

 

 伊皿山は南樺太北西部の鵜城村にある、標高約1100メートルの山である。昭和13年に樺太を訪れたドイツ人学者マルチン・シュミットが、国立公園に指定すべき景勝地であると絶賛している(『樺太』昭和14年2月号所収、「樺太印象記」)。

 

 伊皿山はまた、高山植物が豊富であった。当時、樺太では世界的に希少な高山植物が発見され、密採取が問題になっていたそうで、この頃の新聞には、「高山植物採取を厳重に取り締まる」(昭和7年11月16日)等の記事がたびたび散見される。

 

 ヒグマに喰い殺された3名も、そのような人々であったらしい。

 

 鵜城村大字鵜城の洋服仕立て職人・宮澤忠三(47)、同村土工人夫・安田長次郎(31)、恵須取町土工人夫・佐野忠策(31)の3名は、9月29日午前9時、集落から約4里半奥地にある伊皿山麓に高山植物『山つつじ』を採取するため、2日ぶんの食料を携帯し登山に出かけた。

 

 しかし、3日たっても帰宅しないので、10月3日朝、巡査以下15名の捜索隊が入山探索した。4日は人夫13名、5日は在郷軍人会18名がそれぞれ行方を捜索したが、わずかに木彫りの目印と思われる形跡を海岸から約3里の地点で認めたのみ。さらに6日朝も50名の捜索隊を編成したが、これまた午後5時に空しく帰還した。

 

 遭難地点の状況にくわしい林務署長は、次のように語った。

 

「あの山はどこへ登っても海がみえるので、海さえ目あてに降りてくれば古丹か円度へ必ず降りることができる(中略)。熊もあんな高いところに住んでいないから、熊のために殺されたとは考えられない。食料の不足とか疲労から山中で休んだまま歩行もできず飢餓したとみるのが本当だろう」(『樺太日日新聞』昭和10年10月13日)

 

 しかし、この遭難事件の数日前、山を挟んだ対岸の知取町で、牧夫がヒグマに八つ裂きにされて死亡するという凄惨な事件が起きていた。

 

 22日午前7時頃、知取町郊外にある牧場の式部某(50)と中谷某(20)が路傍より突然飛び出した巨熊に襲われ、中谷はかろうじて逃げたが、式部は猛り狂った熊のために全身に創を負い、大腸を露出した無残な姿で発見された(『樺太日日新聞』昭和10年9月24日)

 

 このため、伊皿山で遭難した3名も、「ことによったら熊に喰われたのではないかと憂慮されていた」という。

 

 そして10月13日、捜索隊はついに、凄惨な現場を目の当たりにした。

 

《巨熊に喰われた無残な三名の頭蓋骨 鮮血に塗れた熊笹の密林に歴然と残る恨みの跡

 

 去月二十九日、高山植物いそつつじ採集に鵜城村伊皿山に登山した鵜城村洋服仕立屋宮澤忠蔵他二名の捜索隊は既報数回にわたって決行され、遺留品だに発見できず絶望中、去る十三日午前九時、最後の捜索隊高倉徳三郎氏外数名が円度川上流四里の地点熊笹生い茂る密林中に巨熊に喰い尽くされたと見られる無残な三名の頭骨、熊の糞、他に外套等遺留品ある旨、十四日夕方同氏等の帰村によって判明した。》(『樺太日日新聞』昭和10年10月16日)

 

 捜索隊は絶望しつつ、「これが捜索の最後だ」と悲壮な決意のもと、12日朝に円渡川をさかのぼり、途中で夜営し、13日未明、藪を伝って頂上から南に2里の場所で遭難者たちが露営した形跡を発見した。さらに登攀し、熊笹の茂った足場もない険しい場所で、熊と格闘してついに喰い尽くされた遺体を見つけた。

 

 付近は歩くのも困難で、13日には足下に鈴を見つけ、次に外套の切れ端があるという具合に、3名の遭難地点が近いことがわかった。無我夢中でよじ登ると、鮮血にまみれた熊笹や木々が散らばっており、熊にやられたことが一目瞭然だった。

 

 おそらく、巨熊に襲われたが足場が悪く、そのうえ険しい山中だったため、ナイフで必死に反撃したが、一人一人、熊の手で殺されていったのだろう。転がっていたという3つの頭蓋骨が悲しい。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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