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6歳児の死体には山ぶどうが供えられ「眠るよう」…さらった子供を「愛でる」クマ、アメリカでも日本でも事例が
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.12.02 06:00 最終更新日:2023.12.02 06:00
2019年1月29日、CNNのニュースに興味深い記事を見つけた。アメリカで行方不明になった男児を森で発見したところ、「クマが一緒にいてくれた」と語ったというのである。
《米ノースカロライナ州で行方不明になり、丸2日以上たって森の中で見つかった3歳の男児は、森にいる間すっとクマと一緒だったと話していることが分かった。ケイシー・ハサウェイちゃん(3)は22日、親類宅の庭から姿を消した。大規模な捜索の末、24日に無事発見された。地元捜査当局者が28日、CNNに語ったところによると、ケイシーちゃんは搬送先の救急病院で、それまでどうしていたかを語り出した。森の中に友達がいて、その友達はクマだったと話したという。》
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クマが一緒にいたかどうかは確認のとりようがないが、最初の夜は氷点下まで冷え込み、2日めの夜は50ミリの雨が降る過酷な状況のなかで、何かがケイシーちゃんの助けになっていた可能性はあるという。
日本でも、幼児をさらう「人さらいグマ」の話は、戦前の資料等で散見される。いずれも「喰う」のではなく「愛でる」のが目的としか思えない。
たとえば大正13年(1924年)9月2日付の『小樽新聞』に「巨熊の傍(かたわら)に一夜を明かす」という不思議な事件が報じられている。
雨竜郡幌加内村の農民・山田藤太郎の娘ミツ(3)が、母親が洗濯に出た留守中、行方不明となった。村中大騒ぎとなり、付近の山を探したが、夜になっても手がかりがなく、熊にさらわれたものとあきらめていた。
ところが、翌日の午後3時頃、同村の大塚某が山林を通行中、子供の泣き声を耳にしたので、草むらの中を分け進むと、《顔面虫にさされて血にまみれ虫の息となっているミツ》を発見。
さらにその先に巨熊がうずくまっているのを見つけて仰天し、ミツを抱えて一目散に逃げ出した。ヒグマもその剣幕に驚いたのか、山中深く逃げ込んでしまった。幌加内村では、当時、夜な夜な巨熊が出没して作物を荒らしていたという。
次は、クマがまさに赤児をさらうところを危うく助け出した話である。
《大正九年、私は小学二年生で新しく出来た桂ヶ岡の男子校に通学していたが、ある日二ッ岩の陰で畑仕事をしていた女の人が子供の泣き声で驚いて行ってみたら、畑の隅に休ませていた我が子を熊が攫(さら)って崖を登って行くのであった。度胆をつぶす位驚いたが、母親は狂気のようになって熊の後を追って崖を登って行きました。
崖を登り切ったところで熊に追い付いたところ、熊は母親のすごい執念に圧倒されたのか子供を放して山林の中に姿を消しました。母親は子供を取り戻しましたが、不思議なことに子供さんにはカスリ傷一ツ無かったと云うことでした》(北海道口承文芸研究会『北の語り 第二号』所収「羆見聞記」)
以下の悲話も人さらいグマを連想させる事件である。
勇払郡厚真村で、世にも不可思議な幼児の変死事件があった。それは大正14年8月13日のこと。中山長蔵の二男清治(6)が兄(11)と隣家の遊び友達(11)と3人連れ立って小川で遊んでいた。
午後4時頃、突如として清治の姿が見えなくなったので、兄と友達は驚き、急いで帰宅して報告。一家はもとより、村総出で3日にわたり付近を探したが、清治の姿は見つからない。
村では、「大蛇に呑まれたのではないか」「里人がたまに見る、頭は赤く首から下は真っ黒な老狐に連れて行かれたのではないか」といった噂が広がった。
12日後の25日、炭焼き夫が山中に分け入ったところ、幼児の死体を発見した。警察と医師が検視をしたところ、死因は餓死で死後5日とされた。
しかし、6歳の幼児が、行方不明となった現場から人跡未踏の山中を1里(4キロ)余りも、どうやって移動したのか、まるで見当がつかない。
《清治の死場所はおよそ直径三尺もある大木の倒れた側であって、あたかも家の中で寝る様な風に着物や帯を枕元に置き倒木の上には山葡萄を三百匁ばかりも供えてあるのと、不明になって七八日も山中にいた、そうして下肢は草ずりの傷があって死に様があまり安々と眠って居るような往生であるから世説は再び謎のようなものとなって来たが、老狐のために七八日も養われたらしい形跡がないでもない、現場に蕗の葉を敷いてあったりなどあたかも伝説にあるもののごとくであるが、謎の鍵は清治の死体と共に永久に深く埋もれて行くのだ》(『北海タイムス』大正14年8月28日)
樺太出身の芥川賞作家・寒川光太郎は、北海道を題材にした作品で知られるが、ヒグマにさらわれた娘の挿話も遺している。
《荒々しい四歳熊が、結婚するばかりになっていた娘を口にくわえて、再び密林の中へ消えて行ったとか、数年後逃げかえったその娘はもう使いものにはならぬ白痴のようであったとか、全身毛だらけの無気味な幼児が山中で噛み殺されていたとか、ぞっと背筋をはうような物語は、年々くりかえされる人間殺戮の被害と相まって、シカリコタンの性悪熊を証明する立派な事実として一般に確く信じられているところである》(『北海道熊物語』)
《エトロフの漁村の一少女が、熊に掠われたまま行方不明となり、やがて数年経った頃ようやく離されて父母の家へ帰ることが出来た、それから後というもの、その少女は、一言も三年間の話には触れず、何かの気配を感じては、まっ蒼となって家へ逃げこんだりしたという話を聞いた。少女が熊と一緒にいたことを語らないのは、一言でもそれに触れたら恐しい復讐をされるからだ、という》(同)
これらの話は、柳田国男の『山の人生』にもあるとおり、いわゆる「山禍伝説」と酷似している。内地から移住した人々によって、ヒグマに置き換えられたものだろう。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
( SmartFLASH )