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寝巻は裂かれ目も鼻も判別できない怨念まみれの死体…仔熊を殺した男だけを狙った【第7師団兵舎工事喰い殺し事件】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.11.18 06:00 最終更新日:2023.11.18 06:00
三浦綾子の小説『天北原野』(新潮文庫)に、次のような一節がある。
《旭川開拓当時、飯場の一人が仔熊を殺した。殺した男は、夜飯場の真ん中に寝ていたが、親熊が夜中に飯場を襲い、大勢の中からその男を只一人引き裂いて運び去った話は有名だ》
この事件はヒグマの復讐譚として、当時広く知られたようである。
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宮北繁の名著『北海道熊物語』の「第六話 旭川師団建設現場 復讐された鉄太郎」に事件の詳細が語られているので、以下に摘記してみよう。
明治32年の晩秋、旭川第7師団の兵舎建設のため、毎日、数千人の大工、左官、鳶などが入り込んで働いていた。そのうちの今井鐵太郎という者が熊撃ちに出かけ、首尾よく仔熊を獲殺した。その晩は熊肉をつついて宴会となり、みなが寝静まった明け方頃のことであった。
《キャッと云う異様な声とガタガタと云う音とが聞えて五郎は目をさました。そして大きな声で皆をたたき起すと「オイッ、あかりをつけろ」とどなった。誰かがあわててランプに火を入れると五郎はつづいてこう叫んだ。
「鐵がいるか、鐵」
だが返事は急になかった。だれかが鐵太郎の床を見つめながら叫んだ。
「鐵が見えません、アッ熊の足跡が、あれここにも、そこにも」
人々は一瞬限りない恐怖におそわれて顔と顔を見合せた。間もなく急が四方に伝えられ大勢の人々が手分けをして明け初めた山路に向って走って行った。五郎も一生けん命だった。
「畜生、とうとうやって来やがったな」
心中でこんなことをつぶやきながら余りにも突然的な出来ごとに流石の彼でさえ気がおちつかなかった。高台に近づくにしたがって滴々として赤い血がこぼれている。
「もう駄目だ」
五郎はいかにも残念そうにつぶやいた。まもなく寝巻はぼろぼろに裂かれ目も鼻も判別できないような鐵太郎の死骸が発見された。人々はあまりに無残なありさまに一言も発し得なかった。
遠くに勝どきをあげるような熊の咆哮をききながら人々は復讐された鐵太郎の遺骸を戸板に乗せて悄然と山を下るのであった》(旭川市・及川恭人氏談)
当時の土工部屋は、中央に土間の通路があり、左右に幅一間の板間が、一段高くしつらえてあり、数十人の人夫が一列に、川の字に並んで寝るのが一般的であった。そのなかから、鐵太郎だけを襲い、山に引きずり出して殺したのである。親熊の執念深さを感じずにはいられない。
実は、この事件が起きる前年、旭川郊外の2つの集落で墓地が暴かれ、死体が喰われるという事件が起きている。
当時の新聞によれば、鷹栖村の共同墓地の5カ所、近文5線8号の墓地の3カ所で死体が暴かれていたという(『北海道毎日新聞』明治31年10月1日)。人間の味を覚えたヒグマが、墓を暴いていた可能性が高い。
この加害熊を撃ちとった顛末は『東鷹栖雑記録』(松田光春)に詳しいが、さらに余談がある。陸軍省から、対ロシアの最前線となる第7師団司令部の位置選定の密命を帯びて派遣された歩兵課長・村山邦彦中佐ほか数名が、上記の大熊が役場に運ばれて解剖されるのを、人混みにまじって見物していたが、村民のうち誰一人、それを知る者はいなかったという(『旭川市史』昭和34年)。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
( SmartFLASH )