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渡辺恒雄さん、最後まで持ち続けた“読売愛”面接で大学生に激怒、専用車のナンバーは「読売1000万部」の語呂合わせ

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2024.12.20 18:45 最終更新日:2024.12.20 18:45

渡辺恒雄さん、最後まで持ち続けた“読売愛”面接で大学生に激怒、専用車のナンバーは「読売1000万部」の語呂合わせ

渡邉恒雄氏

 

「いきなり、『君は定規で測って確かめたうえで、こう書いたのか?』ですからね。驚きました。もう子どもかよ、と思いました」

 

 と明かすのは、経済ジャーナリストの山口義正氏だ。

 

 

 12月19日、読売新聞グループ本社代表取締役主筆で、読売巨人軍元オーナーの渡辺恒雄さんが、亡くなったことが発表された。渡辺さんは1950年に読売新聞社に入社し、政治部の記者として辣腕ぶりを発揮。歴代首相を長く担当したが、とくに故・中曽根康弘元首相とは公私にわたってのつき合いで、“懐刀” とさえ言われた。

 

 単なる“新聞社の社長”にとどまらず、政界から球界まで多大な影響力を持った渡辺さん。数々の豪快なエピソードを残しているが、山口氏もまたそのひとりだ。

 

 山口氏は日本公社債研究所(現・格付投資情報センター)のアナリスト、日本経済新聞社証券部記者などを経て独立。オリンパスの粉飾決算事件のスクープで「第18回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム大賞」を受賞した経済ジャーナリストだ。

 

 じつは山口氏は、法政大学法学部4年生のとき、読売新聞社の定期採用(新卒採用)試験を受験し、最終面接まで漕ぎつけたという。その最終面接の相手が渡辺さんだったのだ。山口氏が続ける。

 

「当時、渡辺さんは副社長でした。とはいえ、『読売新聞のドン』『ナベツネ』の異名はある程度、世間にも知られていました。編集担当とはいえ、そんな大記者が面接するものなのかと、かなり緊張しました。人事担当取締役を従えて面接室に入ってきた渡辺さんは、先に提出した書類に目をやりながら、ひと言、ふた言の短い質問をしていました」

 

 時代はバブル景気の直前ということもあり、内定予定者は60人を超えていたという。いよいよ山口氏が質問される順番となり、“事件”が起きた。

 

「提出書類には、『読売新聞社への提言』といった欄がありました。私は、読売新聞の活字が他紙より大きい、そのため誌面がスカスカに見えるから、もっと行間を詰めて、多くの記事を掲載するべきだ、といったことを書いていました。渡辺さんはこれを、読売新聞に対する侮辱と感じたのか、厳しい口調で『定規で測ったのか』と発言したんです。私も驚いたのですが、他紙との印象を比較しただけで、定規で測ったわけではないという反論をしました。渡辺さんはまったく納得してくれず、にらみつけるような視線を投げかけられました」(山口氏)

 

 あわてて、人事担当者と思しき社員が「ウチはルールにのっとり、紙面を作っているから」と言って、場を収めたという。当然、山口氏に内定が出されることはなかった。

 

 渡辺さんの“読売愛”エピソードはほかにもある、別のメディア関係者はこう語る。

 

「専用車のナンバーが『よ 01000』だったのですが『読売1000万部』の略だったそうですよ。とにかく絶対的な“読売愛”があり、相手が大学生であっても、紙面に意見されるのは我慢ができなかったんだと思いますね。銀座に朝日新聞の本社、有楽町に読売新聞の本社があったころ、いまの有楽町駅前に、俗に“朝日裏”と呼ばれる飲食店街がありましたが、渡辺さんは絶対に足を踏み入れなかったくらいです」

 

 当然、他紙に厳しいのと同じように、自社の紙面にも厳しかったという。

 

「新聞発行日は、体調が悪化してからも午前3時には起きて、自宅に届けられる各版の紙面チェックを続けていました。ちょっとでも気に食わない記事があれば、躊躇せず整理部に電話して、差し替えをさせていました。広告欄も『読売にふさわしいかどうか』という点で目を光らせていました。そのせいで、一部の業界の広告が掲載できない時期が長かったんです。毀誉褒貶がある人物でしたか、少なくとも新聞人として、真剣に紙面に向き合っていたのは間違いないと思います」(同前)

 

 自身の追悼記事も、空の上で厳しくチェックしていることだろう。

( SmartFLASH )

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