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大相撲はどうして国技になったのか、これが2000年の歴史だ
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2016.09.18 12:00 最終更新日:2016.09.26 14:25
●両国の地にモダンな建物、それが国技館
1657年の明暦大火では10万人以上の人が亡くなった。無縁仏を弔うため建てられた両国回向院(えこういん)の境内、江戸市中からは離れた場所に国技館はできた。
1833(天保4)年より回向院の勧進相撲は春秋2回の興行の定場所に。とはいえ10日間の小屋掛け興行であり、雨天の場合は中止されていた。1909(明治42)年、東京駅を設計した辰野金吾の手による常設館が完成した。
披露文に相撲を国技と称する文言のあったことから、尾車(前の大関・水戸平)が館の名前とした。つまり相撲は自ら勝手に国技と名乗りはじめたのだ。裕仁親王(後の昭和天皇)は1925(大正14)年、大相撲を台覧し、その拝領金で摂政杯が謹製された。異形のチカラビトが権威より正当性を得たのだ。
●昭和初期、力士にも忍び寄る「戦争の影」
『東京相撲協会』は1927(昭和2)年、『大阪相撲協会』と大同団結し、『大日本大角力協会』が発足した。翌年からはラジオ中継がはじまったため、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられスピード化が図られる。新メディアの登場で大衆人気は不動のものになった。
しかし時局は徐々に悪化。日中戦争の激化から番付表に「応召」「入営」などの文字が書き加えられるようになる。
1944(昭和19)年2月、国技館は軍部に接収され風船爆弾工場となったため、五月場所は後楽園球場での開催を余儀なくされ、翌年には東京大空襲が激しかったため一月場所を中止、3月には国技館や相撲部屋の多くも消失し、幕内の松浦潟(まつらがた)、豊島などが戦災の犠牲に。
●戦後はルールを模索、そして黄金期へ──
1945(昭和20)年11月に10日間の秋場所を挙行後、国技館は米軍に接収され、大相撲は興行場所さえ一定せず苦難の時期を迎える。人気回復のため優勝決定戦制度や一門系統総当たり制が採用された。
1950(昭和25)年一月場所では5日目までに三横綱が休場するという事態となり、横綱審議委員会が誕生する。1952(昭和27)年9月、蔵前国技館での秋場所から土俵の四隅にあった柱を撤去し吊り屋根に変えた。翌年に予定されたテレビ中継に備えたものだった。
これに伴い現在のように柱に巻いていた四色の布を房にして下げる形となる。日本経済の復興、繁栄とともに大相撲は戦後の黄金期を迎え、「栃若」、「柏鵬」、「輪湖」といったスターを生み出すのだった。
(週刊FLASH 2008年11月18日号)