
2025年6月3日午前6時39分、巨人終身名誉監督の長嶋茂雄氏が肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。
「長嶋さんは、3月15日の巨人とドジャースのプレシーズンマッチを訪れ、大谷とツーショット写真に収まるなど、健康面が回復の方向に向かっていたかと思われました。
じつは、巨人の開幕戦である3月28日に東京ドームを訪れる予定だったんですが、直前になってキャンセルしています。巨人とド軍戦から2週間足らずでしたが、この時期に容態が悪化したという話もあるし、そもそも3月15日の訪問さえ、長嶋さんの医療スタッフは難色を示していたともいいます」(スポーツ紙デスク)
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長嶋氏は、2004年3月4日、脳梗塞で倒れて入院。一命は取りとめたものの利き手を含む右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。
その後は「若い子でも根を上げるほどのリハビリ」をやり遂げて理学療法士を驚かせ、公の場に出ることも増えていった。しかし、2022年に自宅で転倒し、脳内から出血して再入院。その後、入退院を繰り返していた。
そんな長嶋氏の楽しみが、大谷翔平の活躍だったという。
「長嶋さんは若いころから朝が早かったため、すべて午前中から放送され、ときに夜中に中継されるMLB中継を見ることが苦ではなかったそう。大谷選手の活躍を見ることが日課になっていました」(同)
長嶋さんと大谷の接点は、2016年、報知新聞でおこなわれた対談だった。この年の大谷は打者として打率.322、22本塁打、67打点、投手として10勝4敗、防御率1.86と、二刀流選手として確固たる地位を築いたシーズンであり、日ハムを日本一に導いたシーズンでもある。
当時の報知新聞の記事によれば、大谷は長嶋氏から「エースや4番としてチームを優勝させることがスーパースターになる最初の条件。負けるチームにスーパースターは生まれない」という金言をもらっていた。毎年のように最下位争いを演じていたエンゼルスからナ・リーグの名門・ドジャースに移籍した裏には、長嶋氏の言葉があったのかもしれない。
「長嶋さんは若いころの自分を大谷選手に重ねていたのかもしれないですね。あるインタビューで『メジャーへの憧れはあったし、プレーしたい気持ちは強かった。実際、入団3年めの1960年には巨人に直訴しました、ドジャースでプレーしたい』と語っています。もちろん答えは『NO』でしたけどね」(ベテランの野球ライター)
それから65年、大谷はド軍で自身3度めのMVPを満場一致で獲得し、MLBでは初めて世界一の栄冠にも輝いた。そして、長嶋氏が寝ても覚めても気になっていた巨人は、昨年4年ぶりのリーグ制覇を達成し、今季も順調に首位争いを演じている。
そうした奮戦が長嶋氏を安心させたとは言わないが、5月に入り容態は悪化の一途だったという。5月下旬には、いつ何が起きてもおかしくない状態だったが、奇跡の頑張りを見せ、一時は持ち直したものの、6月3日に永眠。奇しくもこの日は、最期を看取った次女・美奈さんの誕生日だった。
野球ファンの間では、89歳は「ヤキュウ」であり、大好きだっだ「3」のつく日に亡くなったと、早くも神格化されている。長嶋さんの野球愛は多くの人が受け継いでいくだろう。