1月28日、中日ドラゴンズは17日に急逝した高木守道さん(享年78)の追悼試合をおこなうと発表した。試合はオープン戦で2試合を予定。高木さんの故郷・岐阜県の長良川球場でも1試合が予定されている。
「部屋に一人でいるとき、インターネットのニュースで目にしたんです。守道さんの訃報を知ったときは涙が出てしまいました」
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こう語るのは、中日ドラゴンズの応援歌『燃えよドラゴンズ!』の作者・山本正之氏(68)。中日のスターティングメンバーをたどっていくおなじみの歌詞は、1974年に発表された当初、高木さんが最初だった。
「一番高木が塁に出て――」
1974年、山本氏は大学を卒業後、音楽業界を志望し、東京で就職活動中だった。
「ある日、下宿に戻ると私の部屋でラジオがついていたんです。そこで放送されていたのがプロ野球の中日戦。同い年で当時ルーキーの藤波(行雄)がタイムリーを打った瞬間でした。同い年の活躍を聞いて『私も頑張らないと』と思ったんです。『よし!やろう!』と。
そういう気持ちで銭湯に行ったら、フレーズが思い浮かんできた。そこから『一番高木が~』という歌詞も出てきて、その日のうちに『燃えドラ』のほとんどが完成しました」
郷里・愛知の先輩が上京してきたとき、「応援歌に採用されたら10万円もらえるぞ」と言われて、山本氏はラジオ局に「燃えドラ」を送った。
「結局、その10万円というのは先輩の嘘だったんですが、ラジオで曲を流してもらったんです。そうしたら、リスナーの方から大反響で」
中日ドラゴンズの名応援歌になった瞬間だった。歌い手に中日OB・板東英二氏(79)を迎えたレコードは、名古屋を中心に40万枚以上のヒットになった。
その後も山本氏は、高木さんと不思議な縁を感じることになる。
「自分が見に行くと負ける、という気持ちがあって、子供のころ父親に連れていってもらったきり、球場で試合を見てなかったんです。
でも、『燃えドラ』を発表したこともあって、球場に中日の試合を見に行きました。そうしたら、守道さんが3ランホームランを打ってくれて。試合も勝って、マジックを減らしました」
番組の企画で、高木さんと北陸へ旅行したこともある。
「それも『一番高木が~』という歌詞からの企画で、守道さんと私が一緒に旅に行くという企画でした。北陸へ向かう列車のボックス席で目の前にしたのが、本当に初対面で。そのまま2泊3日、一緒にいましたね。
いろいろやったなかで、守道さんに私が歌を聞いてもらうという場面がありました。守道さんが引退したとき、『高木守道に捧げる歌』という曲を私が勝手に作って、それを本人の前で歌ったんです。『ああ守道よいつまでも~』と歌い終わると、守道さんの目が潤んでいて……嬉しかったです。
旅の最後には、みんなで『背番号1』のユニフォームを着て、守道さんからバックトスを教えてもらうところがあって。なので、私は高木守道のバックトスを受けているんです。私のも受けてもらっているし(笑)。守道さんが『あんた、うまい!』と言ってくれたのもすごく嬉しかった」
「怒って試合中に帰った」というエピソードからわかるように、グラウンドでは「短気」「頑固者」の印象が強かった高木さん。だが、山本氏はそれとは違う印象を感じたという。
「移動中の列車で、私が持ってきたギターケースを網棚に乗せてくれたり、蟹の食べ方を教えてくれたりと優しいんです。グラウンドでも時々垣間見た、もう一つの魅力でしたね」
数年おきに最新版が発表されている『燃えよドラゴンズ!』のなかで、高木さんは現役選手として4回、往年の名選手編で2回、監督として1回、歌詞に登場している。
高木さんが2度めに監督就任した2012年~2013年は『燃えよドラゴンズ!』が発表されなかったが、「幻の燃えドラ」があったと山本氏は明かす。
「じつは発表直前までいったんですよ。もちろん歌詞を書いたし、『BACK TO THE DRAGONS』というカップリング曲も作っていました。だけど、結局発表できなかったんですよね。最後はもちろん『守道監督の胴上げだ』という歌詞です」
新たに高木監督が登場する『燃えよドラゴンズ!』は、もう実現しない。
「誰かを思い出したときに、その人の『温もり』を感じますよね。私の中の守道さんの『温もり』は、これからもずっと私を温めてくれると思っています。
私はいつかまた、守道さんが監督をやるときがあるかもしれないと思っていました。そのときは『燃えドラ』を作って、会いに行こうと思っていました。もう会いに行けませんが、これからも、『1番高木が塁に出て』を心に刻んで、『燃えドラ』を作り続けます」
高木さんの勇姿は『燃えよドラゴンズ!』の歌詞の中で生き続ける。