5月8日に放送されたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。第18回「壇ノ浦で舞った男」では、源平合戦のクライマックスとなる「壇ノ浦の戦い」が描かれた。視聴率も、世帯平均視聴率が12.7%(数字は関東地区、ビデオリサーチ調べ)と、前回放送より0.2ポイントアップした。
ワイヤーアクションを使った義経の「八艘飛び」や、幼くして入水した悲劇の「安徳天皇」がネットでトレンド入りしたが、一方では気になるこんな情報も。
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《下関出身の母からの情報。あのあたりは平家びいきですね》
えっ、そうなの? 真偽を確かめるべく、地元の人に話を聞いた。
「はい、間違いありません。下関は “平家びいき” です」
そう答えてくれたのは、下関市立歴史博物館の学芸員、岡松仁さん。
「江戸時代、下関に来た旅人の手記が残されており、そこにはこう書かれています。『下関の遊郭では芝居をやっているが、ここは平家びいきの土地柄なので、平家を悪く言うような芝居はやらない』と。
少なくとも、江戸時代において、すでに平家びいきだったことがわかります。
下関に残る伝承は、そのほとんどが平家に関するもので、源氏や義経のものはわずかです。市内の祭りでは必ずと言っていいほど踊られる『平家踊り』も、平家一門を供養する踊りが由来とされています」
『鎌倉殿』では、当時の戦では禁じ手とされていた「舟の漕ぎ手を殺す」作戦を義経が実行したことで、源氏が逆転勝利を収めたーーという展開。地元の漁師だった漕ぎ手を殺したことで、「義経憎し=平家びいき」となったのでは?
「源氏が舟の漕ぎ手を射たということは、『平家物語』に出てきます。しかし、それを義経が命じたという記述はどこにもありません。
壇ノ浦の戦いが語り継がれていくうち、義経の天才性がどんどん強調され、それで義経が禁じ手を使った話が生まれたという説が有力です。ですから、それと下関の平家びいきは関連ないと考えられます」(岡松さん)
では、なぜ下関は平家びいきになったのか。
「もともと下関は平家が拠点を築いた土地であり、平家由来の神社なども多く、関係性が深いんです。それに加えて、安徳天皇の悲劇性ですね。
鎌倉時代以降、下関を訪れた旅人は、源平合戦に思いをはせて歌を詠むことが往々にしてありました。江戸時代の朝鮮通信使は、下関で安徳天皇を悼む漢詩を詠む慣例もあったんです。
こうしたことが積み重なり、平家びいきが強まっていったのではないでしょうか」(岡松さん)
不遇なものに対し同情を寄せるという意味で、下関の平家びいきも「判官びいき」といえるのかもしれない。
( SmartFLASH )