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伊原剛志 「死にたい」と行き詰っても役者人生を続ける理由「百点満点の演技なんてものはない」

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.11.06 11:00 最終更新日:2022.11.06 11:00

伊原剛志 「死にたい」と行き詰っても役者人生を続ける理由「百点満点の演技なんてものはない」

伊原剛志

 

 暖簾をくぐると、真新しいヒノキのカウンターの清涼な香りが迎えてくれた。9月上旬に乃木坂・星条旗通り近くに移転した「鮨まつ」は、目利きの主人が仕入れた旬の魚を楽しみに食通が通う店だ。

 

「新しくなってまだ3週間ですけど、お邪魔するのは今日で3回めですね」

 

 6年前、伊原剛志は知り合いに紹介され来店し、主人の丁寧な仕事ぶりにたちまち魅了されたという。

 

 

「そのころ、テレビ東京のドラマ『ヤッさん~築地発!おいしい事件簿~』で主演をしていました。朝、築地でロケをしていると偶然にも仕入れをしていたこちらの大将とお会いしてびっくり。そんなこともあって、ご縁を感じました」

 

 大好きな光り物のにぎりをつまみながら宮城の銘酒「伯楽星」を冷やで味わう伊原は、高校3年生のときに故・千葉真一さんが創設したジャパンアクションクラブ(JAC)のオーディションを受け、倍率150倍を超える難関を突破。芸能界入りの足がかりをつかんだ。

 

「進学校だったのでほとんどのクラスメイトは大学受験をしました。でも僕は『目的もなく大学に行ってもしょうがないな。だったら4年間、いろいろな経験をしてみよう。役者はおもしろそうだし、それができるかもしれない』と思い、もともと体を動かすことが好きだったのでJACを受けました」

 

 高校の卒業式の1週間後に上京。JACの稽古場近くに借りたアパートは、風呂なしトイレ共同、家賃は2万3000円だった。この「おそらく築70年を超えている」(伊原)というアパートには後日談がある。

 

「数年前、たまたま訪れたら空き部屋があったので借りました。しばらくして僕が住んでいた部屋が空いたのでそちらに移動。家賃は2万8000円でしたから40年で5000円のアップですね(笑)。今はその部屋でYouTube『IHARA Channel』の収録をしています」

 

 上京後は早朝から喫茶店でバイト、夕方からJACの稽古という毎日。髪の毛が洗えないほどの疲労と筋肉痛。階段も四つん這いで上がった。

 

 1年後の1983年、舞台『真夜中のパーティ』のオーディションに合格したが、これが伊原の気持ちを大きく揺さぶることになる。

 

「僕はいちばん若くて19歳。すぐ上は33歳の奥田瑛二さん。台詞がなかった僕は、舞台にいながらベテランの方々の演技をじっくり見ることができました。そして『役者はこうして違う人間になれるのか』と感動して『この道を行きたい』と強く思いました」

 

 JACに戻ると雪中合宿で何kmも走らされ、吹雪の中で空手の練習もさせられた。「俳優」とは少し違うと感じた。さらに「子供のころから自由が好きで、強制されることは嫌いだった」という伊原は厳しい先輩後輩の関係にも疑問を持ち、6年半でJACをやめることを決意した。

 

「同じ時期に堤真一君もやめることになっていたので、話し合いはあまりいい雰囲気ではなかったですね」と苦笑交じりに思い返す。

 

 退団後は映画やドラマに相次いで出演、中堅俳優として地歩を固めた伊原は、NHKの連続テレビ小説『京、ふたり』(1990年)、『ふたりっ子』(1996年)の出演で広く名前を知られるようになった。同時にほろ苦い思いをしたこともあるという。出身中学の同窓会に参加したときのことだ。

 

「懐かしい気持ちだった僕でしたが、みんなは『一緒に写真を撮って』というノリだったので、なんていうか寂しさみたいなものを感じました。旧友というより『俳優』という接し方をされたみたいでしたから」

 

 その後の活躍は、枚挙にいとまがないが、特筆はクリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』(2006年)だろう。1932年ロサンゼルス五輪馬術競技の金メダリスト・バロン西こと西竹一中佐を好演、世界的な評価を得た。

 

「今でも皆さんから『硫黄島、観ました』と声をかけられますからありがたいですね。あの作品には本当に出演したくて。西中佐の役は出演希望者が多かったようでオーディションの結果がなかなか来なかったんです。受かったことを知ったときは跳び上がって喜びました」

 

 ハリウッド映画はすべてが新鮮だった。

 

「小さな金魚鉢から海に出た気分でした。労働組合がしっかりしていたので、撮影時間が決まっていて、休みも週2日ありました。そのころの日本の撮影は当日の終了時間すら見えなかったですから。

 

 それと僕は『いい作品にしたい』という思いが強くて現場でも意見を言うことが多いんです。日本ではそれがウザがられるので妥協することもありましたが、逆にハリウッドでは『君はどう思う?』と聞かれたときに答えられないと『おい、何も考えていないのか?』となります。『監督、こうしたいんですが』と訴えると必ず聞いてくれましたし、予算も多かったんでしょうね、希望が実現することも多かったです」

( 週刊FLASH 2022年11月15日号 )

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