音楽プロデューサーの川原伸司は、自身が手がけた明菜の26枚めのシングル『二人静~「天河伝説殺人事件」より』(1991年3月25日発売)を手に取り、語り始めた。
「このジャケット写真は中森さんが考えたもの。彼女は般若のお面を持っています。着物を左前で着ていて、これは死装束の姿。静かに死人に寄り添っているイメージ。作詞家の松本隆さんが『彼女の演出は素晴らしいけど、やりすぎなんだ』と言ってた」
1990年、明菜を取り巻く環境は劇的に変化していた。デビューから苦楽をともにしてきた研音・ワーナーとの対立が表面化し、音楽活動が停滞し始めていた。
ある日、ビクターのディレクター(当時)・川原が松本隆の家を訪れた。
「今、誰の詞を書いてるの?」
「元C-C-Bの関口誠人のソロ曲。聴いてみる?」
「これさ、中森明菜に合うんじゃない?」
「本当だ。明菜のイメージにぴったりだ!」
川原は以前から、明菜の個人事務所の社長を務める友人の中山益孝から「明菜に合う曲があったら探してほしい」と言われていた。ビクターのディレクターがワーナーのアーティストを手がけるという異例の事態だったが、ともかく、明菜の新作が決まった。
1991年、川原と明菜はスタジオで初めて対面した。
「中森さんが『3通り歌いますから、どれがいいか決めてください』と言って歌って。そして松本さんが『桜吹雪の中にいるようなイメージで歌ってみて』とリクエストして、計4本録った」(川原)
川原は4テイクめを主軸にして歌を繋いでいった。
「中森さんから『ここだけは3テイクめにしてくれますか?』とか『ここのボーカル、勝手に変えたでしょう?』と指摘されたことがあった。耳がよくて音に敏感な人。彼女が優秀なボーカルプロデューサーであることは確かです」(同)
1993年7月19日、川原はスタジオで明菜の到着を待っていた。歌入れを予定していたが、約束の時間が過ぎても明菜の姿はなかった。不審に思った川原が電話をかけると、受話器の向こうで明菜はすすり泣いていた。
「今、家に家宅捜索が入っているの…」
明菜のスタッフが大麻所持の疑いをかけられ、四谷署の署員が明菜の自宅まで捜索していた。2人にはまったく身に覚えのないことだった。
川原はスタジオを飛び出し、明菜の家に向かった。すでに建物を大勢のマスコミが取り囲んでいた。川原は車をガレージに入れ、部屋にいた明菜の手を引いた。
「さぁ、スタジオに行こう。こんな日はちゃんとレコーディングしたほうがいいんだよ」
川原は何事もなかったように歌入れを始めた。
「ふだんどおりのことをやればいいと思った。彼女は音楽にふれることでバランスを取っていた。最初はピッチが不安定だったけど、最終的にはいいテイクが録れた。さすがだなと思った」(同)
明菜は歌えば歌うほど、歌の主人公に憑依できた。
* * *
「お前、明菜をやっているらしいな。それなら○○を別のメーカーに移籍させるぞ」
「訴訟に発展する可能性があるから覚悟しておけよ」
一部の業界関係者が川原の自宅まで押しかけてきて「明菜には関わるな」と警告してきた。明菜が抱えていたさまざまなトラブルは、日を追うごとに増えていた。
「保守的な芸能界の古くさいルールだよ。社内で後ろを振り向くと、誰もいなくなっていた」(同)
* * *
明菜が表舞台から消えて5年がたとうとしている。初代ディレクター・島田雄三が明菜の気持ちを代弁する。
「明菜は体調さえ整えば歌いたいと思っていますよ。だって、歌が大好きだから…」
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