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鈴木砂羽、50歳を迎えて気づいた境地「鎧は少しずつ剥がしてこのままの自分で生きていく」

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.08.06 11:00 最終更新日:2023.08.06 11:00

鈴木砂羽、50歳を迎えて気づいた境地「鎧は少しずつ剥がしてこのままの自分で生きていく」

鈴木砂羽

 

「焼き肉を食べるときは、ホルモンがないと嫌ですね。ホルモンが大好きなんで “ホルモンヌ” って言われてます」

 

 七輪を前に嬉しそうに話すのは鈴木砂羽。西小山駅からほど近い「ホルモン焼 かっぱ」は、鈴木を「うっとりする美しさ」で魅了する、新鮮なホルモンが提供される。

 

 

「生焼けだと生臭くなってしまうので、ホルモンは苦手という人が多いと思うんです。でも上手に焼くと本当に美味しい。もちろんお肉がフレッシュなことが前提ですが、『かっぱ』さんのホルモンはとっても新鮮でお肉がきれい。

 

 これだけ美味しいお肉なんで、焼き方にもうるさいですよ。いい感じに焼くのが得意で “焼き奉行” ならぬ “焼き将軍” です(笑)」

 

 友人からの誘いがきっかけで3年ほど前から「かっぱ」を贔屓に。いつもは「まず、ビール」という鈴木だが、今日のお供はしそバイスだ。

 

「昔より脂っぽいものや量が食べられなくなったんですが、軟骨などの脂身がない部分だといろんな種類が食べられちゃう。食べることが好きな私にはぴったり。ホルモンをゆっくり焼きながら、お酒と一緒に友達と語らう時間がすごくいいんです」

 

 鈴木というと “酒が強い女優” が代名詞だが、本当の顔はちょっと違うようだ。

 

「『お酒を飲む』と話したことが独り歩きしちゃって。本当は強くなくてお医者さんに『きみのはあまりアルコール分解ができる肝臓じゃない』と言われたことがあるんです。仕事で7、8軒はしご酒をしたことがありましたが、翌日は使いものにならない。若いころは楽しくてすごく飲んじゃってましたが、今は体の声を聞くようになりました。『もう帰ろうよ』って」

 

■風呂なしアパートで過ごした青春時代

 

 鈴木は画家の両親のもと、静岡県浜松市で育った。

 

「小学生のころはすごく動きまわる子供だったみたいで。母の『どうせならきれいに動いて』という思いから、クラシックバレエを習っていました。中学では部活もやらずにバレエに夢中になり、お稽古に通っていましたね。

 

 このころからもっと “ガチな表現” をしたいと思うようになっていきました」

 

 芽生えた思いは止まらず、高校生になると自主映画を撮るように。勉強そっちのけで夢中になり、カメラの向こうでパフォーマンスをした。

 

「先生には『勉強する気はあるのか』と怒られてばかり。親も呼び出されたりして迷惑をかけました」

 

 好奇心旺盛な少女は東京へ出たいと思うようになり、得意な絵を生かして女子美術大学へ進学。矢口史靖監督との縁で映画『裸足のピクニック』(1993年)に出演する。

 

「カメラの前に立ったとき、『映画って楽しい!』と思って、もっと出たい、もっとやりたいと思ったんです。でも、試写会で観たら、演技は下手だし不細工だしで、ショックを受けて。演技が上手になりたいと、すごく思いました」

 

 そこで、高みを目指して文学座のオーディションを受け、見事合格。演技の勉強を本格的に始めた。

 

「風呂なしのアパートに住んで銭湯に通い、毎日、卵とキャベツばっかり食べてた気がします。たまに年上の先輩に焼き肉なんかをごちそうになったりしてたので、悲壮感はなかったな(笑)。

 

 バイトしながらも、毎日レッスンに通って、仲間もできて、自分の役作りに没頭したり。 “青春時代の黄金期” みたいでいちばん楽しかったです」

 

 だが、文学座の研究生から研修科に上がる試験には不合格。そんなとき、仲間から「砂羽に向いてると思う」と映画『愛の新世界』(1994年)のオーディションを勧められた。ここで合格を勝ち取り、俳優として主演でデビューを飾った。

 

「最終選考はヌード審査。公共の場で、初めてカメラにすべてをさらしちゃいました。脱ぐことには抵抗がありましたが、美大生だったこともあって、デッサンされる彫像みたいな気分でしたね。

 

 あのときも多くの取材を受けてヌードになった気持ちを聞かれたけれど、同じようなことを言っていました。

 

 でも、今だからわかるんですが、あれは “観る” 側から “観られる” 側に認識が変わった瞬間だった。何も怖いものがなくなって、自分はそういう人間になるんだと思ったのを覚えています」

 

 センセーショナルな作品は評判を呼び、ブルーリボン新人賞、キネマ旬報新人賞などの映画賞を総なめにした。

 

「なんの気負いもエゴイスティックな気持ちもなく、あるがままを表現したらそういう結果になったのだと思います」

 

 この作品を機に、仕事や環境は大きく変わる。だが、彼女自身は急には変われない。まわりから生活態度や言動を、よく注意されたという。

 

「いろいろ言われて叩かれると、自分を矯正するようになっちゃうんです。女優はどうあるべきかと悩むようになって。小さくギュッとなってしまって、自分が自分らしくなくなってしまう。お仕事は本当に好きで、お芝居に入るたびに役に対しての情熱はあったんです。だから、矯正して臨むのですが、『こうやりたい』と自分らしさを求める気持ちをコントロールできなくて……。そんな悩みを抱えていた25歳ぐらいからの10年間は苦しかった」

 

 30代後半からの10年は、逆に自分らしくなれることを追求することにした。

 

 誰にどう思われようといいじゃないか、殻を破ってみよう、と。試行錯誤しながら、自己表現の一環で、漫画を描いたり、バラエティ番組に出演したりする。

 

「女優はこうでなければいけないという枠が私を苦しめるのであれば、壊してしまえ。好きにやったらいいよと思ったんです。

( 週刊FLASH 2023年8月15日号 )

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