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医学部の地下には死体用水槽がある?大江健三郎『死者の奢り』がどれほど名作なのかを解析する
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2024.03.01 11:00 最終更新日:2024.03.01 11:00
2023年3月3日、大江健三郎がこの世を去りました。88歳でした。東京大学でフランス文学を学んでいた学生時代の作品『奇妙な仕事』以来、常に文学界の先頭を走り続けた大江。
1958年に『飼育』で芥川賞、1967年に『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞、1973年に『洪水はわが魂に及び』で野間文芸賞、1983年に『「雨の木」を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛次郎賞を受賞。
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そして、1994年には、川端康成についで日本で2人目のノーベル文学賞受賞者となります。理由は、「詩的な力を駆使して想像の世界を生み出し、生と神話を凝縮して、ギョッとさせるようなやり方で現代人の苦境を描き出したため」というものでした。
作家の処女作には、その後、書かれることになるすべての作品が予告されていると言います。大江健三郎の場合はどうでしょうか。
まずは、次の2作品を読んでみましょう。1957年、東京大学でフランス文学を学んでいた学生時代、五月祭(本郷キャンパスで行われる文化祭)賞受賞作となった小説『奇妙な仕事』、ついで芥川賞候補となった『死者の奢り』です。
大江はそれ以前から作品を書いているので、これらは厳密な意味での処女作ではありません。しかし、多くの読者に学生作家のデビューを強烈に印象付けたという意味で、事実上の処女作と言ってよいでしょう。
『奇妙な仕事』と『死者の奢り』は、いずれも学生アルバイトの話です。前者の仕事内容は、大学病院の実験用の犬150匹が不要になったので撲殺して皮を剝ぐというもの。ところが、肉の仲買人が肉屋を騙して犬の肉を売り込んでいたことが警察沙汰になり、バイト代は支払われないことになる。
後者の仕事は、医学部大講堂の地下水槽に入っている解剖教材用の人間の死体を、新しい水槽に移すというもの。ところが、今度は連絡の行き違いで、本来なら焼却場で火葬すべきだった死体を、誤って新しい水槽に移してしまったのでした。
しかし、翌朝、予算を出した文部省の役人が視察に来るので、徹夜をしてでもそれまでに水槽から死体を運び出さなければなりません。その分の報酬が払われるかどうか不明です。
作品中にはそうとは書かれていませんが、小説の舞台が大江自身の通っていた東京大学であることは明らかです。文京区本郷の東大キャンパスは中央に時計塔があり、そこから上野の方に向かってなだらかな下り坂になっているのですが、その先に東大病院があります。
まずは、『奇妙な仕事』の冒頭です。
《付属病院の前の広い舗道を時計台へ向かって歩いて行くと急に視界の展ける十字路で、若い街路樹のしなやかな梢の連りの向こうに建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっているあたりから、数知れない犬の吠え声が聞こえて来た。》
一方、本郷三丁目駅寄りの入り口である赤門(旧加賀屋敷御守殿門)の正面から右側にかけてのエリアには医学部関係の建物が集まっていますが、『死者の奢り』の書き出しは、次のようです。
《死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向かって凝縮しながら、しかし執拗に体をすりつけあっている。》
私の学生時代は大江の時から30年ほど時間が経過していますが、それでも時計台に向かって歩いてゆくと、「梢の連りの向こう」から「数知れない犬の吠え声」が響いてくる幻聴に何度か悩まされました。
また、医学部の地下に死体用水槽があるという話は一種の都市伝説になっていて、実際、その周辺で死体の気配を感じたこともあります。
大江の文章は決して読みやすいとは言えませんが、いったん波長が合ってしまうと、いつのまにかこちら(読者側)の現実が作品世界に侵食され、ついには塗り替えられてしまう。そんな不穏な力が、そこには働いています。
これは大江文学の主要な特徴の一つなのですが、先のわずかな引用からは、他にも大江ならではの独自の要素を見て取ることが出来ます。
たとえば、時計台が象徴する上向きの力、地下水槽が象徴する下向きの力、この上下相反する力が作品世界を貫いていることです。時計台だけではありません。『奇妙な仕事』の引用個所にある街路樹の梢、突き立つ建物の鉄骨……といった言葉。これらは、天に向かって勢いよく上昇する垂直の力を感じさせます。しかし、『死者の奢り』に描かれる地下水槽は、すべてを底へ底へと引きずり落とすのです。
では、小説の末尾において、上昇下降という相反する方向を持ったこの2つの力は、どのように描かれているでしょうか。それぞれの結末部分を見てみましょう。
まず『奇妙な仕事』。主人公の「僕」は、アルバイト仲間の「女子学生」に次のように語りかけ、仕事が打ち切りになったために殺されずに済んだ犬たちが吠え続けるところで、小説は終わります。
《僕らは犬を殺すつもりだったろ、とあいまいな声で僕はいった。ところが殺されるのは僕らの方だ。
女子学生が眉をしかめ、声だけ笑った。〔……〕全ての犬が吠えはじめた。犬の声は夕暮れた空へひしめきあいながらのぼって行った。これから二時間のあいだ、犬は吠えつづけるはずだった。》
次は『死者の奢り』の最後。死体をトラックに載せる積出口から戻って来た「僕」が、地下水槽に帰る場面です。
《今夜ずっと、働かなければならないだろう、と僕は考えた。それは極めて困難で、億劫な、骨のおれる仕事だと思われた。しかも、事務室に、報酬をはらわせるためには、僕が出かけて行って交渉しなければならない。僕は勢いよく階段を駈け下りたが、僕の喉へこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情は、のみこむたびに執拗に押しもどして来るのだ。》
優れた小説の冒頭と結末においては、作品世界の基本構造上の変化が認められるものです。今、上下相反する力に着目するならば、『奇妙な仕事』の冒頭ではもっぱら上昇する力のみが強調され、最後の場面においても、その力は「空へひしめきあいながらのぼって行」く「犬の声」として表現されています。
ところが、ここには下降力も描かれていて、それは「殺すつもりだった」「僕ら」から「殺される」「僕ら」への転落、つまり相手(この場合には犬ですが)に対して優位な位置にあったはずの自分が、相手より劣位の場所に下降するという形をとって表現されます。
2つの力は重なり合うことがないので、犬の鳴き声は天の彼方にまで登り、逆に「僕」はどこまでも下降するより他ありません。
一方、『死者の奢り』の冒頭では、上昇力と下降力が、「頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている」死体として危うい均衡を保っていますが、結末部分では、この2つの力が「僕」の身体を舞台にして対立し、葛藤し続けます。
すなわち、「勢いよく階段を駈け下り」→「喉へこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情」→「のみこむ」→「執拗に押しもどして来る」。
このように、『奇妙な仕事』と『死者の奢り』はいずれも、冒頭と結末において作品世界の構造上の変化が認められ、これを巧みに表現している点において、処女作にして既に傑作の名に値します。
しかし、さらに下降し続けるか、それとも「のみこみ」と「押しもどし」を永遠に繰り返すか、いずれの結末であっても、未来に向けた展望がありません。
むろんこれは、「僕」が追い込まれた不条理な閉塞状態のリアルな描写なのです。これらの作品が発表されたのは戦後、高度経済成長の初期にあたり、歴史的に回顧すれば、社会は急速な上昇気流に乗っていたように思われます。
しかし、その裏面には深い闇が広がっていました。それは近代史そのものの闇なのですが、これを間違いなく感知している点でも『奇妙な仕事』と『死者の奢り』は優れた作品です。
※
以上、井上隆史氏の新刊『大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」 』(光文社新書)を元に再構成しました。従来の大江像に再考を迫ります。
●『大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」』詳細はこちら
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