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常にトップを目指してきた男「人生の転機」を陶芸で知る

ライフ・マネー 投稿日:2018.09.07 06:00FLASH編集部

常にトップを目指してきた男「人生の転機」を陶芸で知る

 

 表参道駅近く、閑静な通りに突然料亭のような二階建ての一軒家が現われる。玄関には「彩泥窯」と書かれた大きな暖簾。素人でも陶芸が楽しめる教室だ。

 

 作務衣姿の主宰者・中野拓さんは、50歳には見えない若々しさだ。大学時代は日本一にもなったボートの選手だった。

 

 

「淡路島の出身で、子供のときはみんなより小さくて、授業についていけず、勉強もできなかった。途中から背は伸びましたが、勉強のほうはそのまま。なんとか島の私立高校に入り、せめて運動だけでもと思ったときに出会ったのがボート。

 

 人生が変わりました。ボートが強い学校で、特に全日本クラスの先輩がいて、憧れた。男の中の男というか、あんなふうになりたいと思いました」

 

 高校時代は、日本一にはなれなかったが、国体、インターハイに出場した。

 

「そのとき初めて、日本一の選手になるために、日本一ボートの強い大学へ行きたいという目標を持ちました」

 

 ボートが日本一強いのは日本大学。選抜試験を受けて、みごと合格した。大学では2度、8人乗りのレガッタで日本一になった。

 

「実業団に入ってオリンピックに、とも考えたのですが、生活の心配がありました。仕事だけをしている人たちに、半分スポーツをやりながらどうやって勝つのか? それなら、サラリーマンで日本一を目指したほうがいいと、ボートはやめました。そして、カセットテープなどで有名なTDKに入りました」

 

 会社では営業部に配属された。ボートしか知らないので、ろくに漢字も書けないし、会議で飛び交う英語の意味もわからなかった。しかし、負けず嫌いだったので、セールスコンテストではいつも優勝した。

 

「普通の人の半分しかない能力を、フル回転させた。みんなは能力の半分も使っていないので、負けなかった。ただ時間がかかるので、人の2、3倍は働きました」

 

 売り上げはいつもトップ。常に自分が正しいと、部長の指示も聞かなくなった。

 

「いやな奴でした。それで、静岡で頭を冷やしてこいと、飛ばされました」

 

 27歳のときだ。

 

 しかし、この転勤先で陶芸に出会い、その魅力に惹かれることになった。仕事では1年で静岡営業所の売り上げを日本一にし、3年で東京に戻された。

 

 そして、社長の下にできたプロジェクトチームに入り、CM制作やマーケティングなど全社的な仕事に携わった。

 

「仕事はやりがいがありました。でも陶芸のほうが、豊かな時間を味わえて楽しかった。最初は見よう見まね。そのうち思いどおりに成形できるようになり、土から焼き物に変わっていく変化がじつにおもしろかった。

 

 完成すると不思議なことに、すごくいとおしくなる。これまでの大量生産、大量消費の価値観と真逆。

 

 人生一回なので、自分にしかできないことに全力でチャレンジしようと……。経済的な不安はありましたが、36歳のときに会社を辞めて、陶芸家として出発しました」

 

 得意の技術である彩泥から「彩泥窯」と名づけ、家があった千葉県の行徳で教室を開いた。

 

「駅から歩いて二、三十分のところで、10坪ほどの小屋みたいなところ」

 

 チラシを作り、3カ月かけて10万世帯にポスティングをした。その効果で生徒が集まるようになり、やがて隣も借りた。3年後には行徳駅前に進出。

 

 その数年後、転機が訪れる。

 

「生徒の作品発表会の会場で、青山ベルコモンズの社長から、うちで教室をどうかと誘われました。家賃も言い値でということで、2011年に移りました。

 

 教室は大盛況。若い人が多く、陶芸のイメージを変えたと、民放のテレビ全局が取材に来ました。

 

 ただ、東日本大震災の影響か、建物に亀裂が入って再開発が決まり、2014年に表参道に移りました」

 

 2017年10月に50歳を迎え、新たなステージに進むことを決めた。日本一社会貢献する陶芸家だ。20代から寄付は続けてきたが、貧困にあえぐ子供たちにもっと貢献したい。

 

 これまで売らなかった作品を売り、それを寄付する。そのための陶芸活動。

 

「五十にして天命を知る、です」

 

 清々しい風が心の中を吹き渡った。

 

(週刊FLASH 2018年9月11日号)

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