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いま明かされる「ヤフーBB」革命前夜、そのとき孫正義は…

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.03.05 11:00 最終更新日:2019.03.05 16:37

いま明かされる「ヤフーBB」革命前夜、そのとき孫正義は…

 

 いまや世界有数の大規模企業集団であるソフトバンクグループ。2018年10月に「自動運転技術」をはじめとするモビリティサービス分野において、トヨタ自動車との電撃提携を発表するなど、孫正義氏が主導する施策は、世間を驚かせ続けている。

 

 そんな孫氏の革命的なビジネススタイルを、かつてごく身近で体験したのが、現在は複数のスタートアップ企業で役員・アドバイザーを務める須田仁之氏だ。

 

 

「2001年、当時の最新通信規格だったADSLを使った、ソフトバンクグループ初の通信事業となる『Yahoo!BB(以下、BB)』の立ち上げに携わりました。

 

 そのころにはもう『カリスマ経営者』と呼ばれ、もっぱらゴルフや会食など “社長業” をされていた孫さんが、久しぶりに現場で陣頭指揮をとる、渾身のプロジェクトでした。

 

 当時20代半ばだった僕は、『スカパー!』の営業代理店として、アンテナやチューナーを販売・レンタル契約を取り扱う社内の子会社に所属していましたが、経営企画のエキスパートだった上司のサポート役として、BB事業に参加することに。

 

 でも、その上司が徐々にBB事業からエスケープしていきまして(笑)。僕が実質、『孫さん直属の経営企画担当』になり、同じビル内でダブルワーク地獄に落ちていくわけです」(須田氏、以下同)

 

 当時、東京・箱崎にあったソフトバンク本社。BB事業に参画する前の須田氏にとって孫氏は、年2回ぐらいエレベーターで見かけるぐらいの存在だった。

 

「孫さんを偶然見かけたときは、同僚と『 “ナマ孫” 見たわ! すごくね?』と自慢し合うような感じでした(笑)。ですから最初は、『あの孫さんと仕事ができるんだ!』と、トキメキましたし、嬉しかったですね。でも、すぐにその感動はなくなりました」

 

 当時のソフトバンクは、通信事業に関してまったくのド素人。しかし、孫氏は毎日BB事業の会議を主宰し、ひとりだけ初めから必勝の心意気で臨んでいた。会議は社長室の、15人ほど着席できる円卓でおこなわれ、サービス開始までの数カ月間、毎回3時間~4時間にも及んだ。

 

「参加メンバーは、孫さん、当時の社長室長、孫さんのブレーン、技術者、放送事業子会社の上司たちと私の10人ほど。メンバーのなかで、通信に詳しいのは、技術者の2人だけしかいませんでした。

 

 孫さんはじめ参加者のほとんどが、通信事業のことを何もわかっていない状態でしたので、とにかく会議に時間がかかって。
初めはずっとADSLの妥当性を検証していました。延長戦も当たり前で、いつ終わるかわからない会議の後ろには、予定が入れられません。

 

 会議は、ずーっと孫さんがしゃべりつづけて、通信識者が反論する、『経営vs.技術』の対立構造。ほかの人は、なんとなくの見解を述べられたり、孫さんのご機嫌取りに終始していましたね。

 

 というのも、ベンチャー時代からいる古参の先輩方は、『受け身』が上手なんですよ。PCやゲームのソフトの卸売をする、営業会社から事業を広げてきたソフトバンクは、当時ですでに100社以上の子会社を潰してきていましたから、『また始まったよ孫さん、どうせ飽きるでしょ』という雰囲気で。

 

 たとえば、会議が立ち上がって少ししてから、当時のソフトバンクグループの稼ぎ頭だったヤフー社の井上社長(井上雅博さん、故人)も招聘されたのですが、まず会議にいらっしゃらないんですよ。ヤフー社はオフィスが別で、青山あたりにあったから、リモート参加でした。

 

 業を煮やした孫さんが、円卓の真ん中にあるヒトデ型をしたリモート会議用電話に向かって、『おい井上、なんで来ないんだ!』と怒鳴りつけるんですが、井上さんは平然とした声で『会社で採用面接がありまして』って。

 

 孫さんは『何考えてんだ、どっちが大切だと思ってるんだ!』と追撃するんですが、井上さんはひるまず『採用も大事です』ってさらっとかわす(笑)。失敗が見えている事業に関わって、ヤフー社の名前を落としたくないんだろう、と言われていましたが、鮮やかな『身のかわし』でしたね」

 

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