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人食いヒグマの口にぶら下がった人間の内臓…胃袋からは大量の人骨と未消化の指が【沼田幌新ヒグマ事件】

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.03.25 06:00 最終更新日:2023.03.25 06:00

人食いヒグマの口にぶら下がった人間の内臓…胃袋からは大量の人骨と未消化の指が【沼田幌新ヒグマ事件】

 

 北海道にのみ生息するヒグマ。北海道開拓の歴史は、この猛獣との戦いによって進展してきたと言ってもいいだろう。環境省の報告によれば、ヒグマによる死亡事故は、1980年以降15名。2008年の3名をピークに、数年おきに1〜2名が犠牲となっている。

 

 しかし、かつては1頭のヒグマが複数の人間を襲って死に至らしめる事件が続発した。改めて凄惨な事件の経緯を振り返り、現場を歩いてみた。

 

 

「沼田幌新ヒグマ事件」事件は、大正12年(1923年)8月21日、雨竜郡沼田村字幌新の太刀別御料地農家、村田三太郎(54)一家らがヒグマに襲われ、妻のウメ(52)、次男幸四郎(15)、雨竜村の熊撃ち長江政太郎(56)、近隣の農家、上野由松(57)の4名が死亡、3名が重症を負った事件である。

 

 

 昭和29年(1954年)刊行の『熊に斃れた人々』(犬飼哲夫・私版)と、当時の新聞『北海タイムス』などを参照にしながら、事件の様子を追ってみよう。

 

 この日、幌新地区恵比島では、太子祭が盛大におこなわれていた。人気の演目であった浪花節が終わったのは深夜11時すぎで、村田一家は近所の青年ら8人と提灯・ろうそくを手に、揃って家路についた。

 

 幌新通りに面した沢にさしかかったときであった。小用を足したせいで、みなより50メートルほど遅れて歩いていた林謙三郎(19)は、突然、暗やみから異様なうなり声とともに襲ってきた巨熊に帯を引きちぎられた。

 

 体力に自信のあった謙三郎は、背中に傷を負いながらも、ヒグマを振り切って駆け出した。だが、彼が「クマだ!」と叫んだときには、村田家の次男・幸四郎は一撃のもとに斃されていた。

 

 母・ウメは、子供が襲われたことに動転したのか、その場で躊躇していたところ、ヒグマが飛びかかり、ウメを押さえつけた。これを見た長男・与四郎はとっさにマッチを擦った。闇の中にヒグマの顔が浮かび上がり、次の瞬間、ヒグマは与四郎に襲いかかった。

 

 与四郎が襲われている間に、一同は現場から300メートルほど離れた持地音松宅に走った。持地家では、すでに寝支度をしていたが、彼らのただならぬ様子に驚き、炉に樺皮(ガンビ)を盛んにくべた。30分ほどして、ヒグマは窓から顔を覗かせたが、人々が声を限りに騒ぎ立てたので、いったん引っ込んだ。

 

 しかし、今度は表に回って、ガラス戸を押し倒し、内側から必死に押さえていた三太郎を踏みつけて家に侵入した。このとき、ヒグマの口から食い殺した幸四郎のものと思われる内臓がぶら下がっていたという。

 

《危険を知ると家の中に居た者はそれぞれ梁に登る者、押入れに入って隠れる者、便所に逃げ込む者、蒲団の間に潜る者等散らす如く姿を消した。

 

 人を見失った熊は炉に燃えている火を掻き散らし、踏みにじったりして暴れたが、村田の妻ウメだけは子供のことで心配の余りこの騒ぎの中にフラフラと一人戸外に抜け出て表にウロウロしていると、熊が気付いて、再び外に躍り出てウメに猛然と襲いかかり抱き込んでしまった》(『熊に斃れた人々』)

 

 夫の三太郎は重症の身にもかかわらず、スコップを手に外に飛び出し、「チクショー! チクショー!」と連呼しながら、妻を引きずっていく熊を幾度も打ち据えた。しかし、熊は悠然と笹ヤブの中に消えてしまった。ウメは初め「助けてくれ」と叫んでいたが、そのうち念仏を唱える声が切れ切れに聞こえ、やがて消えてしまった。

 

 翌朝になって様子を見に行った一同は、腰から下を全部食われた無残な姿のウメを発見した。

 

 一方、畑に倒れていた長男の与四郎は、助け出されて持地家に運び込まれた。犬飼の著書では、《瀕死の与四郎を沼田病院に送ったが、遂に生命を取り止め得なかった》となっている。また25日付の地元紙でも《与四郎は沼田病院に入院中なるも生命覚束なく》となっている。

 

 実際はどうだったのか。昭和52年に採録された村田与四郎本人の口述筆記が残されている。

 

 持地家に運び込まれた与四郎は、2時間かけて沼田の病院まで馬で運ばれた。着いたのは朝の4時頃で、あたりはうっすらと明るくなっていた。

 

 医者が肺の傷を縫い合わせたので呼吸は楽になったが、応急処置もそこまでで、「治療もなにもできない。もうだめだ」と匙を投げられた。熱はどんどん上がって42度に達し、出血もひどくて毛布がベタベタになった。

 

 3日間放置された後、寝台車で札幌の北大病院に運ばれた。2時間に及ぶ手術を受け、与四郎は一命を取りとめ、4カ月後の12月に退院したという。

 

《熊に叩かれてその家(持地家)に入って寝かされたとき、隣の人ら『この人はもう助からんのではないか』ってしゃべってるのが聞こえるんだから。腹立って『俺はそんなにひどいのかな』って思ってね。自分ではそう思ってるんだ。だけど見てる人はね、また…あの血見たら助かるとは思わないんだ。

 

(中略)その次の年にレントゲン検査にその沼田の医者来たんだ。そしたらその医者首かしげて考えとった。もっとも『あの人は死んだ』と部落の人も噂を立ててたから無理もない》(『沼田の熊事件』沼田町教育委員会)

 

「沼田町郷土資料館」の展示ですら与四郎が死亡したことになっているのは、このような噂のためだろう。それほどの重症であったわけだ。

 

 与四郎の口述によれば、ウメが食われている間に、何人かは脱出したようである。翌22日になって知らせを受けた消防団、青年団などが集まり始めた。しかし、この日は熊は姿を見せなかった。

 

 23日になって、雨竜村の熊撃ち名人といわれる砂沢友太郎、長江政蔵らが駆けつけた。長江は身の丈5尺8寸(174センチ)の偉丈夫で、「そんな凶悪な熊は必ず自分が仕留める」と豪語して単身、山に入った。11時頃に銃声が聞こえたが、日が暮れても戻ることはなく、人々は長江がヒグマにやられたものと確信した。

 

 24日午前9時より、警察をはじめとした220名による大規模な山狩りが開始された。

 

 午前11時頃、15町ばかり山に入ったところで突然、大熊が飛び出してきて、隊列の中間に襲いかかり、折笠徳治(57)の頭部に一撃を加えた。折笠が悲鳴を上げて昏倒すると、次に上野に一撃を加えてこれも斃した。

 

 さらに次の者にのしかかろうとしたとき、ようやく戦闘態勢の整った銃士ら3名が、ほとんど同時に撃ち放った。手応えがあり、ヒグマはその場に斃れて動かなくなった。

 

 犬飼の著書によれば、《上野は頭部その他から血を吹いてよろよろと廻りながら倒れ》とあり、重傷を負いながらも生き延びたことになっているが、実際には絶命している。一方の折笠は一命を取り止めた。

 

 行方不明であった長江の遺体は、熊が斃れた地点からほど近い沢奥で発見された。残されていたのは頭部と革帯、そして3つに折れた鉄砲だけであった。長江はこの場所で熊に遭遇し、一発を発射したものの致命傷には至らず、ついには格闘となり、力尽きたものと思われた。別の資料によれば弾は不発で、現場には左足首だけが転がっていたともいう。

 

 この事件で特異なのは、十数名の人間が群れ歩いているところにヒグマが乱入したという点である。実は現場付近には、事件発生の4〜5日前に滑落して死んだ馬が埋められていた。ヒグマがそれを漁って肉食性を強め、さらにエサを横取りされることを恐れて人間を排除したのが原因ではないかと人々は噂した。

 

 討ち取られたヒグマは体長2メートル、体重340キロの雄であった。遺骸は、林謙三郎の家に運ばれ解剖されたが、胃袋からは大ザルに一杯の人骨と未消化の指が出てきたという。

 

「沼田幌新ヒグマ事件」は、日本獣害史上2番めの犠牲者を出した事件だが、知名度はイマイチである。

 

 事件の毛皮は、現在でも「沼田町郷土資料館」で見学することができる。実見してみると、古いものだけにところどころハゲて、なんとなくみすぼらしいが、よく見ると横っ腹に銃弾の貫通創があった。

 

 さて現在、事件現場はどうなっているのだろうか。

 

『ホロニタチベツ御料地 明治44年頃の入植者』(沼田町教育委員会所蔵)と題する古地図を見ると、恵比島から続く「西通り」の右側に「村田三太郎」の字が見える。また「支線」に「上野由松」の名前も見つけた。「持地音松」の名前は見えないが、昭和29年刊の『沼田町史』には、持地家は「現存している」と書いてあるから、事件後も住み続けたようである。

 

 そこで、最近のゼンリンの住宅地図を見てみると……あった。それは恵比島駅から北上すること5キロほど、恵比島峠を越えた先に数軒並んだ農家のひとつであった。しかしこの地点は、すでに留萌市に入っていて幌新地区ではない。事件現場となった持地家とは別の家のようであった。

 

 結局、現場は特定できないまま、とりあえず恵比島駅に行ってみた。ここは1999年のNHK朝の連続ドラマ『すずらん』のロケ地になったそうで、「明日萌駅」と駅名が変わっている。駅の正面には鳥居が見える。あのあたりが太子祭りの会場だったのかもしれない。

 

 沼田町教育委員会の松井佳祐氏より送っていただいた資料によれば、村田三太郎らの入植地は、現在の「ほろしん温泉」一帯で、事件現場はその手前、道道867号線沿いの、恵比島駅から5キロほどの地点であったと思われる。

 

 おそらくはこのあたりではないかというところで車を停めてみた。ホロニタチベツの小川を挟んで、一面の蕎麦畑だが、当時は人煙も希な大樹海が広がっていたことだろう。

 

 再び車を走らせると、ようやく人家が見えてきた。1軒、2軒、3軒めが持地家のはずである。……しかしそこは更地であった。

 

 のどかな畑地が広がるなかに松の木が3本ポツンと立っていた。おそらく「本通り」「西通り」「支線」「袋地」の4地域が交差する地点で、古地図には学校(特別教授所)が記してある。

 

 こんもりと茂る丘の方を見た。あの麓に村田三太郎一家の居宅があったはずである。しかし、現在は往時の開拓農家の姿はなく、茫々たる荒れ地となっている。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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