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大学生3人がヒグマに食い殺された大惨事…顔面陥没、腹部はえぐられ内臓露出、出血のため死体は白色に【福岡大学遭難事件】

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.04.01 06:00 最終更新日:2023.04.01 06:00

大学生3人がヒグマに食い殺された大惨事…顔面陥没、腹部はえぐられ内臓露出、出血のため死体は白色に【福岡大学遭難事件】

 

 北海道にのみ生息するヒグマ。北海道開拓の歴史は、この猛獣との戦いによって進展してきたと言ってもいいだろう。環境省の報告によれば、ヒグマによる死亡事故は、1980年以降15名。2008年の3名をピークに、数年おきに1~2名が犠牲となっている。

 

 しかし、かつては1頭のヒグマが複数の人間を襲って死に至らしめる事件が続発した。今回改めて凄惨な事件の経緯を振り返ってみた。

 

 

 

 福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の遭難事件は、昭和45年(1970年)7月25~27日にかけて、日高山系カムイエクウチカウシ山の八の沢カール付近で起きた。メンバー5名が執拗にヒグマに追跡され、3名が死亡したもので、地元新聞でも大きく報道された。

 

 事件後に作製された『昭和45年度 北海道日高山脈夏季合宿遭難報告書』には、生き残った部員2名の生々しい証言が記録されている。当該報告書と、事件を報じた北海道新聞、さらに遠藤公夫氏による『恐るべきヒグマ カムイエクウチカウシ山の遭難から(前・後)』(「山と渓谷」1971年6・7月号)をもとに、事件の概要に迫ってみよう。

 

 福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の一行は、竹末一敏(経済学部3年・リーダー)、滝俊二(法学部3年・サブリーダー)、興梠盛男(工学部2年)、西井義晴(法学部1年)、河原吉孝(経済学部1年)の5名であった。

 

 7月12日に博多を出発し、14日には十勝新得町の派出所と清水町の営林署に登山計画書などを提出して、芽室岳登山口より入山した。ピパイロ岳、トッタベツ岳などを経て、ペテガリ岳まで縦走する計画であったが、途中、悪天のため停滞するなどして予備日を消化してしまい、下山する予定であったという。

 

 25日、エサオマントッタベツ岳に到達した一行は、午後3時20分、カムイエクウチカウシ山手前の九の沢カールでテントを設営した。夕食を終えた午後4時30分頃、テントから6~7メートルのところにヒグマがいることを、リーダーの竹末が発見した。このときの様子を、生き残った滝と西井は次のように話している。

 

《皆、珍しがってテントの下を開けて見たり、興梠さんが、カメラに収め、自慢話しが出来るといった具合で、恐怖を感じた者はなかった》(西井の報告)

 

 テントから離れてうろついていたヒグマは徐々に接近し、テント外に置いてあったキスリングのザックを漁り出した。テント内からは食料を食べているのが見えたという。

 

 一行はヒグマの様子を窺いながら、隙を見てキスリングをテントに収容した。そして火を焚いてラジオの音量を上げ、食器を打ち鳴らすなどした。ヒグマは30分ほどで姿を消した。

 

 翌26日午前3時に起床した一行は、撤収を始めるが、午前4時30分に再びヒグマが現れた。一行はテントに逃げ込んだが、ヒグマは侵入を試み、テントを支える一行と引っ張り合いになった。もうダメだと思った頃に、リーダーの竹末がヒグマと反対側の幕を上げ、一同はいっせいに逃げ出した。振り返るとヒグマはテントを倒して、キスリングを漁っていた。

 

 竹末の判断で、滝と河原がハンターを要請するために下山することになった。午前7時頃、2人は八の沢の出合で北海学園大学のパーティーと行き会った。彼らもまたヒグマと遭遇したので下山するところであった。

 

 2人は彼らにハンター要請を依頼し、食料、地図、燃料などを借り受けて、カムイエクウチカウシ山の稜線まで戻ったところで3名と合流した。午後1時のことであった。この間の居残った3名の行動は次のようなものであった。

 

《熊は、2時間程、キス(リング)を引張り回しては、かじりつく、時々、茂みに姿を隠す。そうして飽いたのか、沢の方へ去って行く。(中略)竹末さん、興梠さんが撤収に行って、キス3つを昨日下った道を登って上げる》(西井の報告)

 

 ここで彼らが下山していればと悔やまれる。ヒグマが明らかにエサと認識していたキスリングを、なぜ放棄しなかったのか……。

 

 午後4時30分、カムイエクウチカウシ山手前の稜線でテントを設営、夕食を終えた頃に、三たび、ヒグマが現れた。一行はテントを捨てて逃げ、八の沢カールに宿泊している鳥取大パーティーに助けを求めるため、稜線を下りることにした。時刻は午後6時30分。この時期の北海道では、十分に明るい時間帯である。

 

 西井が後ろを振り返ると、10メートルと離れていない地点までヒグマが迫っていた。彼らはいっせいに走り出した。最後尾を走っていた滝は、咄嗟にハイマツに身を隠した。以下は滝の生々しい証言である。

 

《熊は僕のすぐ横を通り下へ向った。そして25m位下のハイマツの中で『ギャー』という声がし格闘している様子であった。とたんに河原がハイマツの中から出て『チクショウ』と叫び熊から追われる様にカールの方へ下って行った》

 

 バラバラになって逃げた一行のうち、竹末、滝、西井は合流したが、興梠は姿を見せなかった。3名は鳥取大パーティーに危急を伝えた。彼らは火を焚きホイッスルを吹くなどした後、テントを放置したまま下山していった。午後8時、3名は安全と思われる岩場に身を潜めて夜を明かすことにした。

 

 翌27日は濃霧が発生し、視界は5メートルほどであった。午前8時、河原を探しながら下山を始めた3名の前に、またしてもヒグマが現れた。距離は2~3メートルであった。

 

 先頭を歩いていた竹末が、ヒグマを押しのけて一目散に走り出した。それをヒグマが追っていった。その間に2名は八の沢を下り、午後1時、砂防ダム工事現場がある五の沢まで下山した。

 

 中札内の派出所に到着したのは午後5時30分であった。報せを受けた関係者によって直ちに捜索隊が組織され、28日午後2時に札内ヒュッテに向けて出発した。

 

 29日の午後2時50分、枯沢のガレ場の大岩の下で、竹末の遺体を、その100m下で河原の遺体を発見した。

 

 午後4時30分、八の沢カール下方よりヒグマが現れ、射殺された。4歳のメスで、体重230キロ。《身長2m程で、茶色というか黄金色や白色が目立つ》(西井の報告)。

 

 胃の中には固形物はなく、白いヌルヌルしたものが大量に詰まっていたが、猟師もそれがなんであるかはわからなかったという。

 

 30日午後1時30分頃、興梠の遺体が発見された。遺体付近に残されていた手帳から、彼の行動が浮かび上がった。彼は河原が襲われた26日夕刻以降、竹末、滝、西井とは別行動となり、単独で鳥取大学に助けを求めて崖を下ったが、途中ヒグマに遭遇した。

 

 このときは石を投げつけるなどして撃退し、どうにか鳥取大のテントに逃げ込んだが、すでに鳥取大パーティーは下山した後だった。彼はシュラフに潜り込み、徹夜の疲れもあって寝てしまったようだ。

 

 翌27日午前4時に目を覚ました興梠は、しばらくテントに滞留した。この時のメモが残されている。

 

《7:00 沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあった、シャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。(中略)他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて不安で恐ろしい……》

 

 興梠の遺体は八の沢カール下部の中の沢で発見された。ヒグマは彼をシュラフのまま50メートルも引きずって散々に咬み荒らし、開口部に爪を入れて頭部に裂傷を与えた。

 

 たまらず飛び出した彼に致命傷を負わせ、さらに70メートル引きずって沢地に放置したものらしかった。衣服は身につけておらず、左顔面が陥没。腹部がえぐられ内臓が露出していた。全身に無数の傷があった。

 

 最初に襲われた河原の遺体も、衣服は身につけておらず、俯せの状態で、特に顔面の痛みが激しかった。全身に無数の爪痕があり、やはり腹部がえぐられて内蔵が露出していた。

 

 竹末の遺体もまた衣服がはぎ取られ、うつぶせの状態で足を広げ、両手を強く握りしめていた。顔面の右半分が欠損し、頸動脈切断による大量出血のためか死体は白く、胸、背中、腹部に無数の爪痕があった。

 

 3名の遺体は天候の悪化のため、31日午後5時、現場にて荼毘に付された。

 

 以上が事件の概要である。当時の新聞の論調は、今で言うところの「自己責任論」に近いものであった。

 

《「明らかに人間側の不注意と言える」ー日高山系で福岡大ワンゲル部パーティーがクマに襲われたことについて犬飼哲夫北大名誉教授は、がっくりしたように警告を発した》(北海道新聞、28日夕刊)

 

 犬飼教授によれば、事件当時、ヒグマの生息数はおよそ3000頭で、開発が進むなか、山奥に追いやられて密集している状態であった。本来は夜行性のヒグマが、「昼歩くという場面自体が異常と考えなければならない」と指摘し、今回のようなクマは「タチの悪いクマだ。人食いグマですね」とも言う。

 

「一度会ったときに、パーティーは事の重大さを考えるべきだった」と、ヒグマが漁ったキスリングを回収したことが、取り返しのつかない失敗につながったとする。

 

『北海道沢登りガイド』(北海道新聞社)の著者で、事故現場となった八の沢カールを6度訪ねたという岩村和彦氏も、《ヒグマの中でも不幸にも凶暴性の強い、人間に興味のあるヒグマに遭遇した不運に尽きる》と指摘する。この「不運」に、彼らの認識不足が重なって惨事が惹き起こされたと言えるだろう。

 

 事故現場である八の沢カールとは、どのような場所なのか。岩村氏によれば、《縦半分に割ったお椀の底にいるような感じ》で、高山植物の草地が広がり、高木もないので、周囲の稜線まで見渡せるという。

 

 八の沢カールの大岩には、命を落とした3名の慰霊碑が打ちつけてある。30年ほど前に岩村氏が訪れたときには、登山靴が碑前に置いてあったという。被害者が履いていたものだったのだろうか……。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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