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髪は頭皮とともにスポリと抜け頭蓋骨露出…ヒグマに手まりのように投げられた母親、惨殺前に響いた悲しき叫び【美瑛村食害事件】

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.08.19 06:00 最終更新日:2023.08.19 06:00

髪は頭皮とともにスポリと抜け頭蓋骨露出…ヒグマに手まりのように投げられた母親、惨殺前に響いた悲しき叫び【美瑛村食害事件】

 

 北海道の美瑛町といえば、「マイルドセブンの丘」を思い出す読者も多いだろう。濃紺の空と波打つ緑の大地、一直線に伸びる白い雲。美瑛町の美しい風景をそのまま映した印象的なテレビCMであった。

 

 だが、同町はヒグマの出没多発地域として古くから知られてきた。それは次の新聞記事からも知られるところである。

 

《旭川警察署管内において(中略)被害地のおもなるは美瑛村を第一に、東川村これに次ぎ、剣淵村、鷹栖村の順序にて、常に熊の出没する方面には魚釣りに行きて殺されたる者多きを占め開墾地及び山林の伐木に従事しもしくは山林に入りて副産物を採取し居りて殺されたる者または牧場にある人畜等の被害多き》(『北海タイムス』大正2年7月6日)

 

 

 美瑛村など旭川南部の村落で開拓がはじまったのは、明治33年(1900年)の根室本線の開通が契機であった。富良野市の公式サイトには、

 

《明治30年から入植が始まる。明治33年に旭川-下富良野間に鉄道が敷設し富良野を含め周辺市町村が発展する。大正2年には滝川-下富良野間の鉄道も敷設され、旭川・滝川・帯広方面をつなぐ拠点としてめざましい発展をとげる》

 

 とある。つまり、明治後期から富良野盆地(大雪山系と夕張山地に挟まれた南北に細長い平野)の開拓が本格化したわけである。そして、開拓とともに人喰い熊騒動が起き始める。

 

 たとえば大正3年(1914年)6月12日、美瑛村の中澤直三郎(83)は、志比内山中にわらび採りに行くと言ったままいつまでも帰宅しなかった。村人が大捜索するも、結局、行方は判明しなかった。志比内東方2里の山中は「熊の巣」とも称すべきところなので、迷い入って熊の餌食になったのではないかという(『北海タイムス』大正3年6月21日)。

 

 大正4年4月、美瑛村南西にある芦別村の村上弥太郎が、奔茂尻の林兵吉方に一泊し、翌日、兵吉の弟とともに山に入った。1頭の巨熊と3頭の仔熊の足跡を発見したので、弥太郎は兵吉の弟に「お前は素人で危ないから」と帰らせ、1人で深林に分け入ったが、行方不明となった。20日あまりたっても帰宅しないので、たぶん熊に喰い殺されたものであろうと、まもなく捜索隊を解散したという(『小樽新聞』大正4年5月11日)

 

 大正8年10月7日には、美瑛村北隣の神楽村西御料地、島チヨ(43)が自宅から40間の水田で稲刈り中、付近の山林より現れた1頭の巨熊に襲われた。左耳下の骨膜に達する咬み傷および頭蓋骨露出に至る重傷を負わせ、ついに死に至らしめた(『小樽新聞』大正8年10月9日)。

 

 この事件は、午後1時頃と真っ昼間に起きたので、目撃者が多かったようである。

 

《瞬間クマはパッと飛びかかって母親の髪の毛を掴むとグッと怒れる形相ものすごく力一杯引っ張った。とたんに髪は頭の皮と共にスポリとかつらのようにぬけた。

 

 力余った熊はどっと後ろへ尻もちをついた。自分の引力に手ごたえがなくハズミを喰ったので、さらに怒り狂った熊は母親の帯をつかむなり棒立ちとなって彼女を空へ向かって投げ上げた。

 

 そして落ちてくる彼女を両手で受け止めてまた投げ上げ、受け止めては投げ上げ、何回ともなく子供の手鞠遊びのように繰り返すのであった。その間、助けてくれ助けてくれという、かの母親の声は、あたりの静寂を破って悲しく響いた》(宮北繁『開拓秘録北海道熊物語』)

 

 そのうち叫び声を聞いた駅員たちがこの有様を発見し、ただちに町に知らせ、人々が線路づたいに駆けつけたが、人間を手玉にとっている巨熊をどうすることもできず、ただ悲鳴をあげるのみであった。ヒグマはチヨが死んだのを知ると、穴を掘って死骸を埋め、上から土をかけて立ち去ったという。

 

 多くの人が目撃したこの事件は村人に衝撃を与え、100円の懸賞金がかけられ、10月14日に旭川猟友会が盛大な熊狩りをおこなった。

 

 その規模は在郷軍人会、消防、青年団ら約300名、勢子(駆り出し係)が1400名という大規模なものであったが、なんらの成果も得られなかった。

 

《わずかに足跡及び腐木の倒壊あるいは蛾食の形跡類を認めたのみ》で、《慰労の挨拶にて隊を解きたるは午後四時過ぎ解散後執銃者は小鳥を撃ち、実弾の試射等をなし無銃者は葡萄、茸等を採りて帰路に就けり》(『北海タイムス』大正8年10月24・25日)と、なんのために集まったのかよくわからない結果となってしまった。

 

 結局、加害熊は未獲のまま終わってしまった。このとき、加害熊を仕止められなかったのは痛恨だったかもしれない。なぜなら、この事件から数年後、釣り人ばかりが4名も喰い殺されるという、恐るべき人喰い熊事件が発生するからである。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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