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目の下から半面掻き取られ首を喰われて絶命…札幌市街地で憤怒ヒグマに襲われる【白石村人喰い熊事件】

社会・政治 投稿日:2023.10.14 06:00FLASH編集部

目の下から半面掻き取られ首を喰われて絶命…札幌市街地で憤怒ヒグマに襲われる【白石村人喰い熊事件】

 

ヒグマ110番30 歴史に埋もれた人喰い熊事件を発掘する 明治十三年札幌白石村人喰い熊事件

 

 近年、札幌の住宅街にヒグマが出現する事件が多発しているが、明治18年(1885年)にも、ある事例が報告されている。『さっぽろむかしむかし』(大西泰久、1989年)に掲載された「熊が酒蔵へ飛び込んだ話」である。

 

《ある日一頭の熊が、円山神社の横からノソノソと下りて来た。そこから札幌の街をノッソリノッソリと歩いて札幌村の方を荒らし、帰りはまた札幌の街へ現われたのである。

 

 

 驚いたのは札幌の街の人達。大声でわめいたり、バケツを遠くで叩いて大騒ぎをするだけでどうすることも出来ない。人間の騒ぎで、逆に驚いたのは熊公である。彼が驚いて飛び込んだ所は札幌県庁の庁舎である。

 

 熊のちん入で驚いたのは役人達、――熊だ――。その一声で庁舎は上を下への大騒ぎ。この騒ぎで熊公またもびっくり仰天して庁舎を飛び出した。飛び出したついでに、官舎の辺を一廻りしたから、官舎の女・子どもはまた大騒ぎ。

 

 熊公今度はとうとう裁判所に飛び込んでしまった。悪事をはたらくと、人間も最後は裁判所の御厄介になるが、この熊公もまさに人間並みである。裁判所で騒がれてまた一目散。

 

 そこからどう歩きまわったのか、とうとうある酒造庫へ飛び込んでしまったからたまらない。――それ、酒蔵へ入った。と、元気のいい連中はすかさず倉庫の戸をぴったりと閉めてしまった》

 

 この後、無事に熊は生け捕りにされ、その慰労でいつくかの酒樽が空になったそうである。

 

 もうひとつは、当時の新聞から引用しよう。

 

《去月三十一日の事なりし、札幌豊平川の彼の釣橋の辺へ一頭の荒熊あらはれ出で、往来の人を害し、なおまた同夜某牧場の牡牛と農学校試験場の馬をば害したるにぞ、同地の驚き大方ならず、あくれば本月一日の寅の一天に屯田兵一少隊は右退治としてくり出し、所々を狩出したるところ、ついに数発の鉄砲玉の下にこれを打斃し、同地博物館へ担ひ来りしが、その目方は四十二三貫目もあり、齢ひは三才ぐらひのものなりといふ。

 

 まづこれにて人々安心の思ひをなしたりといふ。かやうな荒ッぽいお客が市中へ出懸けられてはずいぶん迷惑のものなり」(「函館新聞」明治19年9月14日)

 

「豊平川の彼の釣橋」というのは、国道36号線が通る「豊平橋」のことだろうが、現在では考えられないような事件である。

 

 札幌で発生した事件で、かつ死者を出した事件としては、白石で起きた人喰い熊事件が有名である。しかも、16年の間隔を置いて、同じ地域で2度発生し、2度とも犠牲者が出ているのである。

 

■明治13年白石村人喰い熊事件

 

 事件を報じる新聞記事は以下のとおりである。

 

《九日に下白石村にて馬を野飼いせんとて近傍の草原にひきゆきしに、図らずも二頭の熊を見たるものあり、翌十日、同村の高橋良昌(二十二年)、岩淵求馬(二十七年)、西東成章(二十二年)、石村梅三郎(二十二年)、四人にて鉄砲を携え、人里を離れるおよそ十町ほど行きたる頃、互いに左右に分かれ、熊の居所を探すと、二才ばかりの小熊、良昌が行き先よりあらわれたれば、用意の銃を発し、狙い違わず肩さきを打ち留めたれども、熊はこれに屈せず良昌に飛び付かんと暴れたので、銃の柄にてうち倒したり、岩淵求馬は砲声を聞くや、その場に駆け行かんとせしに、傍(かたわ)らより大熊出来たり、求馬は銃を発するいとまなく、持ちたる銃を捨て組み付きしが、背部を掻き裂かれ、ついに死す。

 

 熊はただちに四五十間も離れいたる石村梅三郎に向かい、これも砲発のいとまなく組み付きしが、顎より喉へかけ掻き裂かれ、右の腕に疵を受け絶倒したるところに、樵者(=木こり)一人駆け来たり、大声を発して熊を追い退けたり。

 

 西東成章は梅三郎の熊に組みつきたるを見て胆を潰して逃げてしまい、追い追い熊の逃げ去りたるを見て成章も立ち戻り、樵夫とともに梅三郎を介抱し病院に連れ行き、この節療養中なりという》(「札幌新聞」明治13年 掲載日不詳)

 

 別の資料では、事件経過や被害状況が、やや詳細に伝えられている。

 

《岩渕安次、高橋良男は熊討ちに行き、子熊を先に討ち候ため、母熊が荒れ、その節、西東成吉、石村梅三郎、石村嘉吉兄弟、都合五人のうち、高橋と石丸(ママ)兄弟は早く木に登って逃げ、西東は笹の中に臥した。

 

 梅三郎は鼻下をかき討たれた上、腰を打たれて百日以上入院し、ようやくして全快したが、岩渕安次は逃げそこない、熊に目下から半面かきとられ、その上両足をふまいて首を食われ死亡し、同日午前十時頃、岩渕は母熊に追いかけられ行方不明で帰らなかった。

 

 みな我が事のように尋ね参りおり候ところ、血の臭いは致せど見当たらず点々武田清寧、渡部次武等一同尋ねおり候うち、ようやく見当たり候ことあり》(札幌市白石区老人クラブ連合会『白石歴史ものがたり』1978年)

 

 白石区も、現在では住宅街が広がっており、ヒグマが出没するなど考えられない地域である。

 

 それはともかく、この事件から16年後、なんと同じ白石村で、またしても人喰い熊事件が起きてしまうのである。この時は2名が死亡、1名が重傷を負い、100日も入院するという惨事となった。

 

■明治29年白石村人喰い熊事件

 

 事件の経過は、札幌市内ということもあり、本社を置く「北海道毎日新聞」(後の北海道新聞)が連日報道している。

 

《白石村熊狩りの景況 巡査三名が旧土人三名を率いて白石村に出張、ここかしこと捜索したが、同所は一丈に余る熊笹で昼なお暗く、(中略)発砲したが手傷を負わせて逃げ失せ、他日を期して引き揚げた》(「北海道毎日新聞」明治29年9月6日)

 

 ここで手負いのまま逃したことが災いしたようである。ヒグマは荒れに荒れて、ついに犠牲者を出した。

 

《白石村熊狩り続報 去る二日以来、二人の人を傷つけ一人を殺し白石全村の騒ぎとなりたる熊は、去る四日午後三時頃、打ち留めたりる由、その際十五名の銃手と他に刀剣槍薙刀の連中二十四名にてときを作って二里余の間を駆り立て、(中略)耕地に出たところを沙流郡平賀村の旧土人バルタメ等の発砲が脇腹を射貫いて斃れた》(「北海道毎日新聞」明治29年9月8日)

 

 葬式で、このとき殺した熊肉を一堂に配ったが、肩や腹などから、数年前と思われる弾丸が6発も見つかったという(「同」明治29年9月9日)。

 

 事件から数カ月後に死亡した武田守約の実兄・武田清寧は、次のような回顧録を残している。

 

「熊も終始出で、弟は熊と組み打ちして無慙にも殺されたり。熊笹の中にて出会い、思うように鉄砲も打てず、ついに熊と鉄砲をつかみ合い格闘したらしく、人間の背丈より高き熊笹が十間四方も伏せられ、頑丈なる鉄砲の銃身がヘシ曲がりて、弟の死骸より十五間も離れたる所に、逆に刺してありたるが、熊もずいぶん憤怒して悪闘したる事と想わる》(白石村役場『白石村誌』、1940年)

 

 かつて白石区一帯が「一丈に余る熊笹で昼なお暗く」という原始のままの大樹林であったというのは、現在の住宅街を思えば、およそ想像がつかないことである。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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