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「プロ毒母」に育てられた娘の慟哭「母はこうして私を支配していった」

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.12.31 11:00 最終更新日:2023.12.31 11:00

「プロ毒母」に育てられた娘の慟哭「母はこうして私を支配していった」

 

 柴田さんは、母親から容赦ない暴言を浴びせられながら育った。子どもの頃から涙もろかった柴田さんは、テレビを見て泣くことや、母親にひどい言葉を浴びせられて泣くこと、自分の気持ちが相手に伝わらずに泣くことも多かった。すると必ず母親は、こう冷たく言い放つ。

 

「簡単に泣けるのは苦労していない証拠」

 

 

 だから柴田さんは、泣くのは悪いことだと思っていた。母親の前で泣かないようにし、どうしても泣きたいときはトイレで隠れて泣いていた。

 

 一方で母親は、柴田さんが小学校に上がると、毎日車で送り迎えをした。洋裁が得意な母親は、柴田さんが着る服を手作りした。

 

「車での送迎は、通学路を歩く友だちやクラスメイトに見られるのが恥ずかしかったです。服を作ってくれるのは嬉しかったですが、母が作る服のデザインが古く、複雑な心境でした」

 

 母親は、柴田さんの学年が上がるごとに教育に熱心になり、中学生になってからは、数学が苦手になった柴田さんに家庭教師をつけた。友だちと遊びに行くときは、必ず相手の名前を聞き、どんな友だちなのかを把握したがった。

 

「プライバシーなんてありませんでした。部屋の中どころか、机の中まで母親にチェックされていましたから。悪い点数のテストなんてとても隠せませんでした」

 

 思春期を迎えると、母親と口論になることが増えてくる。親よりも友だちといる時間が増えると、母親にこう言われるようになった。

 

「言うことを聞かないと親子の縁を切るよ」

 

「母にしてみれば、娘が急に離れて行くようでムカついたのかな……と今は思いますが、当時はとても恐ろしい言葉に感じました。高校時代にアルバイトをし始めたのですが、生活できるだけの収入があるわけではありません。『追い出されたくなかったら言うこと聞け』という脅しです。

 

 でも母の恐ろしいところは、『言うこときけ』の “言うこと” を言わない。『自分で考えて誠意を見せろ』という圧力をかけてくるところでした」

 

 服装や持ち物は常に管理され、小学生の頃はもとより、中学・高校時代に友だちや家族で遊びに行くときの服装も、母親に全身コーディネートされた。

 

 高校卒業後、短大に進んだ後も、やはり母親が買って来た服を着て通学した。自分でコーディネートしたときは、朝母親に見てもらってから出かけた。

 

 母親は、自分が気に入らないことはとことん貶してくる。柴田さんはそれがわかっていたし、怖かったため、服やバッグ、靴までも自分で選んで買うことをせず、30歳くらいまでは母親が選んだものを身につけていた。

 

「母は、いわゆる過干渉で過保護なタイプの毒親でした。子どもに愛情を注いでいるように見せかけながら、罪悪感を植え付ける。子どもに道徳心を教えるように見せかけながら、巧みに母親である自分を尊重するように仕向ける。

 

 しかもそれに子どもである私が全く違和感を抱かぬように仕向けるという、完璧な “プロフェッショナル毒母” です」

 

 なんと、柴田さんが母親のことを毒親だと気付いたのは、柴田さんが40代になってからのことだった。

 

 筆者は、程度の差こそあれ、毒親の家庭にはタブーがあると考えている。タブーとは、例えばひきこもりの子どもをいない存在として扱ったり、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにするような事象を指す。

 

 限られた人間しか出入りしない家庭という密室では、しばしばこのようなタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。柴田さんの家庭にも、タブーがあった。タブーが生じる家庭には、「短絡的思考」「断絶・孤立」「羞恥心」の3つがそろう場合が多い。

 

「短絡的思考」は、柴田さんの両親に見られる。母親は、姉や兄たちから何不自由なく甘やかされて育ち、高校を卒業後、ほぼ社会経験もなく19歳で結婚。

 

 ところが第1子に障害のある息子が生まれ、苦労したことは想像に難くないが、2人目をもうけるにあたり、息子と2人目の子どもとの生活や、自分たち親がいなくなった後のことなど、2人目の子どもの人生をしっかりと考えたようには思えない。

 

 結果的に第2子として生まれた柴田さんは、兄や母親を優先し、当然のように自己犠牲を払い続けてきたため、精神を病んで社会生活が送れない状態にまで陥ってしまった。

 

 これは自己中心的で息子優先の母親はもとより、その母親を制御できなかった父親も同罪ではないだろうか。片方の親による暴挙から幼い子どもを守ることができるのは、もう一方の親しかいない。

 

 父親は母親がいないときに、「そういうときはこう言っておけ」「こう対処しろ」などとアドバイスをしたと言うが、そこまで状況をわかっていながら母親を叱らず、娘が精神を病むまで放置した罪は重い。

 

 また、柴田さんが子どもの頃、「兄のことで世間の冷たさを痛いほどわかっているから、人とは付き合わない」「他人に悪口を言えばすぐに広まる。言った言わないで揉めるなら、初めから付き合わないのが得策だ」というのが口癖だった母親は、1人も親しい友だちがいなかった。

 

 そして、障害のある兄が騒ぐために何度も引っ越しを余儀なくされていた柴田家は、世間から孤立していた。

 

 おそらく、柴田さんが40代になるまで母親を毒親だと気付かなかったのは、「母親からひどいことを言われるのは、自分が悪いからだ」と思い込まされていたからだろう。

 

「自分はできていない=恥ずかしいこと」と考えていた柴田さんは、自分に対する羞恥心から、家庭でのことを誰にも相談できなかった。母親により洗脳・情報統制されていたから、気付けなかったのだ。

 

 柴田さんは現在、母親から受けた “毒の解毒” と、母親が柴田さんの中に埋めていった “感情の地雷” の撤去作業に努めている。

 

“毒の解毒” は、母親の死後、ブログを立ち上げ、母親から受けた仕打ちの数々を思い出し、文章にして吐き出すこと。“感情の地雷” は、それを踏まれると、柴田さん自身が我を忘れるほど感情が振り切れる威力のある言葉や行為を指す。

 

 母親は生前、柴田さんに我を忘れるほど感情を揺さぶりたい瞬間に、効果的にそれを踏んだという。柴田さんはそれらをひとつひとつ思い出しては紙に書き出し、毎日見る場所に貼り、慣れることに努めた。それはどちらも激しい痛みを伴う作業だ。

 

「『母から愛情を感じたことはあるか』という質問を受けたとき、正直答えに詰まりました。愛情というか、手をかけてもらったことに対して、私がそれをただ『ありがとう』と受け取ったことは、私が記憶する限りありません。

 

 必ず文句や悪態とセットで行われたため、子ども心に『それならしてくれなくていいのに……』と思っていました。かといって断れば逆ギレして何もかもを放棄されるので、私は我慢するしかありませんでした。

 

 今思うに母のあれは愛情ではなくて、支配の一環だったと思います。文句や悪態の中の『あんたのことを思って』という呪いの言葉は、母が都合のいいように子どもを動かすための “仕込み作業” だったのです。まんまとしてやられました……」

 

 母親が亡くなって1年以上経つが、今も柴田さんには「自分を生きている」という感覚はなく、「何かのために生きている」という感覚が消えないという。

 

 

 以上、旦木瑞穂氏の新刊『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』(光文社新書)をもとに再構成しました。「毒母と娘」の関係にフォーカスし、その毒への向き合い方とヒントを探ります。

 

●『毒母は連鎖する』詳細はこちら

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