「9月15日に開かれたルノー・日産・三菱アライアンス3社の中期計画発表会見の席上、イヤな予感がしたんです」
日本の自動車業界に詳しい経営評論家の片山修氏は語る。
「ゴーン氏は、2022年の世界販売台数が1400万台になる見通しだと発表していました。しかし、販売台数が1000万台を超えると、オペレーションがうまく回らなくなります。GMの経営破綻、トヨタの超大規模リコール、VWの排ガス不正……。どのメーカーも、“1000万台の壁” につまずいていますから」
片山氏の予感は的中した。9月18日、完成車の安全性などを出荷前に最終確認する「完成検査」を、無資格者がおこなっていたことが発覚したのだ。さらに、是正の報告を上げながら、不正検査を続けていたことも判明。国内向け全車両の出荷停止に至った。
ピンチの真っ只中にいる日産。しかし、日産の創業そのものが逆風の吹くなかでのことだった。創業した1933年当時、日本は昭和恐慌のダメージが癒えておらず、市場はフォードとGM2社の寡占状態だった。
「性能が劣り、高コストの日本車は、外国車に太刀打ちできなかった。そのため、トヨタや日産は、軍用トラックに活路を求めた」(業界紙記者)
戦後、空襲は免れたが、主力の横浜工場は進駐軍に接収された。また、朝鮮特需の波に乗ったのもつかの間、大労働争議が起こる。会社は第二組合をつくってしのいだが、これが後に獅子身中の虫を生むことになった。
1958年には対米輸出を始めるなど、国際化を進めたが、外国資本の受け入れ制限緩和の圧力は高まり、1967年には資本の自由化がおこなわれた。
日産は海外メーカー上陸の脅威を免れるため、プリンス自動車と合併。魅力的な新車を矢継ぎ早に発表する。オイルショックは日産にとっては追い風となり、貿易摩擦もあったが、海外進出は順調に進んでいった。
しかし、その一方で、1976年から国内シェアが低下しはじめた。
「当時の日産の経営はアンバランスでした。組合が力を持ちすぎ、採用や異動を含めて、組合の承諾なしに重要な経営判断ができませんでした」(片山氏)
1980年代は、“技術の日産” を押し進める「901運動」が奏功。ヒット車を連発し、復活を遂げたとされた。
「しかし、あくまでカンフル剤でした。労使対立の後遺症で社内抗争が絶えず、会社は一枚岩になりきれていなかった。バブル崩壊後の経営悪化はそのことが遠因だったと思います」(片山氏)
1990年代には経営破綻寸前に陥ったが、1999年 、ルノーの支援が入り、カルロス・ゴーン氏のもと、劇的復活を遂げた。片山氏が語る。
「大ピンチを乗り越えた経験が、危機管理の力となりました。たとえば、東日本大震災で福島・いわき工場が壊滅的な被害を受けたときは、わずか2カ月で完全復旧。このとき、ゴーン氏は現地を訪れ、『絶対、いわきから去らない』と宣言し、社員たちも奮い立ちました」
20年前と違い、グループは一枚岩になっているのだ。
「ただ、今回の不正検査が見過ごされていたのは大問題です。20年前からおこなわれていたといわれますから、経営改革前の体質、悪習が残っていたということです。ですから今回は、徹底的に膿を出し切るチャンスとも考えられます」(片山氏)
(週刊FLASH 2017年11月14日号)