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林 泰文、子役時代から「役者をやめる」と自問し続けてーー「50歳になってやっと命がけで演じる “覚悟” ができました」

エンタメ・アイドル 投稿日:2023.11.12 11:00FLASH編集部

林 泰文、子役時代から「役者をやめる」と自問し続けてーー「50歳になってやっと命がけで演じる “覚悟” ができました」

林 泰文

 

 新宿歌舞伎町一番街の入口にあるすずやビル。多くの人に愛される老舗とんかつ店「すずや」は、新宿駅の雑踏を見下ろせる5階にある。

 

「20代のころ、新宿の劇場に出演したときに『美味しいよ』と聞いて来たのが最初ですね。『とんかつ茶づけ』をすすめられたのに、普通のとんかつを食べてしまって。またお邪魔したときに『とんかつ茶づけ』を食べたら、さっぱりした味で本当に美味しかったんです」

 

 

 すずやの看板メニューは「とんかつ茶づけ」。熱々の鉄板に揚げたてのとんかつがのり、その上に炒めたキャベツと刻み海苔がたっぷり。

 

 まずは、ご飯のおかずとしてとんかつを食し、シメはお茶づけにする。

 

「当時は舞台がうまくいったときの自分への “ご褒美” で食べに来ていたのですが……。すっかりハマって通うようになってしまったので、ご褒美ではなくなっちゃいました」

 

 林は破顔して揚げたてのとんかつとご飯を頬張った。

 

 林の芸歴は3歳から。いろいろなことが勉強になるからと「劇団ひまわり」に入団したのが始まりだ。

 

「親にも無理に続けなくてもいいと言われて。最初は堂々と学校を休めて、同年代の子たちと遊ぶのが楽しいから続けていた、という感覚でした」

 

 最初に役者業を続けるかどうかで悩んだのは、中学校から高校へ進学するときだった。

 

「仕事をやめようか悩んでいたので、大林(宣彦)監督から映画『漂流教室』(1987年)の主役のお話をいただいたときに『もうやめるので』と断わってしまいました」

 

 話を聞いた大林監督は「僕が人生の先輩だったら『この仕事をやめて勉強を頑張りなさい』と言うけど、映画監督としてなら『勉強も頑張って、この仕事も頑張れ』と言いたい」と説得した。この言葉に胸を打たれ、林は「もう少しだけ役者を続ける」ことにした。

 

 子役から始め、大人になっても続けていける役者は少ない。成長にともなって求められる役割や演技も変わり、大半が脱落していく。林は「大林監督との出会いがあったから続けられた」と振り返る。

 

「大林監督には、中学2年生のときにオーディションで初めてお会いしました。

 

 それまで子役は現場で言われたように演技をするという感覚でしたが、監督は子役を子役として扱わない。『自分たちで自由に考えて、演じてみて』という監督でした。そういうやり方を叩き込まれたことで、自分の中で芝居に対する考え方が変わりましたね。だから “子役から大人の役者へ変わる” 苦労はありませんでした」

 

 それでも葛藤はあった。

 

「僕が20歳ぐらいのとき、 “第二の尾美としのり” と評された時期がありまして。それは嫌だということではなく、自分がどう評価されているのかわからなかった。尾美さんは『誰がなんと言おうと、林は林で俺とは違うから』と言ってくださったんですが……それでそのときは報われて吹っ切れましたね」

 

 だが、役者をやめる、という選択肢は頭から離れなかった。そんなとき、大林監督から連絡がきた。

 

「あれは友人が就職活動を始めた大学3年生のころでした。まわりから『もう少し続けてみなよ』と言われて続けていましたが、そろそろ役者の仕事をやめて就職しようかなと思っていました。

 

 僕が短期留学でアメリカ滞在中に、大林監督から『まだやると決まったわけじゃないけど、おもしろいから』と電話があり、手紙と『青春デンデケデケデケ』の原作本を送ってくださったんです。

 

 読んでみたら本当におもしろくて、帰国してから何度かオーディションを受け、出演が決まりました」

 

 この作品で林は日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞し、大きな評価を得る。だが、当の本人は「これを最後の記念にして就職活動しよう」と思っていた。周囲は説得した。

 

「大林監督やまわりの人から『もったいないからもう少し続けてみなさい』と言われたので、30歳までは頑張ってみようと思っていました」

 

 腹は決まった、わけではなかった。そんな林を変えてくれたのが小林桂樹さんとの出会いだった。

 

「20代半ばで『弁護士・朝日岳之助』(日本テレビ)という作品でご一緒しました。

 

 おこがましいですが『林くんは俺の若いころと似てるんだよ。教えられることは全部教えるから』と言ってくださって。芝居に対する考え方から取り組み方まで、すべてを教えていただきました。子供のころからこの世界にいたので、理屈や頭でしかわからなかった “芝居をすることのおもしろさ” を、初めて体で実感できるようになりました。小林さんとの出会いがなかったら、30歳前にやめていたかもしれません」

 

 その後、ここまでと決めていた30歳で所属事務所を移籍する。それまでは周囲にすすめられるままに所属してきたが、このときは初めて自分の意志で事務所を決めた。自分を欲してくれる事務所があったことで、役者を続ける思いは強くなった。

 

 数年後、また大きな影響を受ける役者と出会う。

 

「『おみやさん』(テレビ朝日)という連続ドラマで渡瀬恒彦さんとご一緒させていただいて。京都の撮影ではほとんど一緒で、渡瀬さんと話す機会が多くありました。

 

 僕は30代半ば。悩みながら役者を続けてきましたが、そのなかで何度も何度も葛藤がありました。渡瀬さんから気持ちの問題というか、『命がけで芝居をすること』を教わったというか。それまで自分にはそこまでの覚悟がなかったから、余計、続けていいのか悩みました。でも、悩みに悩んだことで、命がけで演じる覚悟ができました。(周囲に)なかなかそう見られないみたいですが」

 

 小林さんに演技の “技術” を、渡瀬さんから “気持ち” を教示された林は、50歳を機に事務所を移籍。役者として生きていく覚悟は、さらに強くなった。その林が演じているのが、ドラマ『泥濘(ぬかるみ)の食卓』の父親役だ。

 

「遺産でお金はあるので仕事をせず、娘には過保護な父親役です。演じたことがないちょっと変わったお父さんなので、新しい挑戦です」

 

 これまでの芸歴は半世紀近い。そんななかで「壁にはいつもぶつかってきた」と笑う。

 

「わりと、なるようになれというタイプで、壁に当たってできなかったとしても、それがプラスになると考えています。ただ、今は自分の評価より、作品が評価されることにも喜びを感じますね。『VIVANT』(TBS)は多くの方に楽しんでもらえたようで嬉しいなと思います。さまざまなジャンルの方とひとつの作品を作り上げていく一体感が楽しい。この気持ちだけは最初から変わりません」

 

 そう話すと茶碗にシメのお茶を注いだ。とんかつと一体になり、美味しさがふわりと香った。

 

はやしやすふみ
1971年12月7日生まれ 東京都出身 1975年、子役としてデビュー。1986年、大林宣彦監督の『野ゆき山ゆき海辺ゆき』で映画デビュー。1992年、同監督の映画『青春デンデケデケデケ』に主演し、日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞。近年はドラマ『悪女(わる)~働くのがカッコ悪いなんて誰が言った?~』(2022年、日本テレビ)、『アトムの童』(2022年、TBS)、『VIVANT』(2023年、TBS)などに出演。現在、『泥濘の食卓』(毎週土曜23:30~24:00、テレビ朝日系)に出演中

 

【すずや 新宿本店】
住所/東京都新宿区歌舞伎町1-23-15 SUZUYAビル5階
営業時間/11:00~23:00(L.O.22:30)
定休日/年中無休

 

写真・野澤亘伸
ヘアメイク・安井朋美(FACE-T)
スタイリスト・中村 剛(ハレテル)
衣装協力・junhashimoto、MEN’S BIGI

( 週刊FLASH 2023年11月21日号 )

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