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沖縄県知事・玉城デニーが語る東京時代「ハードロックとゲーセンでバイトの日々」

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.09.01 16:00 最終更新日:2022.09.01 16:00

沖縄県知事・玉城デニーが語る東京時代「ハードロックとゲーセンでバイトの日々」

沖縄慰霊の日にて(写真・アフロ)

 

 沖縄のハイパー高校生ハードロックバンドとも言えた〈ウィザード〉の活動にいったん終止符を打った玉城デニーは、沖縄を出て東京の四谷にあった上智社会福祉専門学校(福祉主事任用課程)に進んだ。

 

 同校は上智大学のキャンパス内にある。卒業すれば、児童指導員と児童福祉士の国家資格が取得できた。デニーが福祉の道に進んだきっかけは、高校時代の親友と話していて、彼が東京の福祉系の大学に行くと聞いてからだった。

 

 

 デニーが得意とする文系の現代国語・現代社会・小論文で受験できる学校もあるという。母子家庭でさまざまな苦労を体験してきたことも強い動機になったのだろう、デニーは福祉の方向に進もうと思いを定めていた。

 

 当時のことをデニーが述懐する。

 

「その専門学校はまじめに授業を受けていれば2年間で卒業なんですが、僕は授業日数が足りなくて、あと1年間、特別講義を受けなければならなくなり、時間にゆとりができたんです。

 

 それで、またバンドでもやろうかなということで、この1年間の猶予期間だけ東京でバンドをやったんですね。卒業して、福祉士の国家資格を取ったら沖縄に帰ろうと思っていました。なんか東京にはなじまないというか、東京で働こうとは思えなかったんです。

 

『ロッキンf』という雑誌にバンドのメンバー募集というコーナーがあって、そこに連絡を取りました。曲はこれとこれとこれで、中から一曲コピーしてきてください、と。

 

 オーディションには一人で行きました。そのオーディションのメンバー募集を呼びかけた方は、いまも現役の女性のハードロックバンド〈SHOW‐YA〉のギター、五十嵐SUN‐GO美貴さんだったんです」

 

 デニーは新宿のゲームセンターでも働いた。ちょうどインベーダーゲームが流行り始めて、スタンドアップ型のゲームからテーブルに座ってプレイするスタイルへの転換期でもあった。

 

 それまでは海外製のコインゲームが主流だったが、インベーダーゲームというゲーム業界の革命児に一気に飲み込まれた。ゲーム機械の入れ換え作業という仕事が楽しくなってしまい、結果的に学校の出席日数が足りなくなった。

 

「僕は最初は四谷三丁目に住んでいて、2年目は中野、3年目は三鷹に住んでいました。で、三鷹に引っ越したのを機に仕事も変えたいということで、ゲーセンから、8トラックのカラオケのテープを組み立てる工場に勤めました。

 

 パートのおばちゃんたちのおしゃべりを背中で聞きながら、カセットのハコを組むという単純作業でした。社長はじめ先輩社員の方々もホントに音楽が好きで、ヒット曲のリサーチをしながらやってましたね。

 

 僕は1年間、学校が延長するならと、バイトも変え、バンドも組みました。東京でライブもやりました。〈キャノンボール〉というバンドネームで、ギター2人、キーボードの6名編成。歌い慣れた『スモーク・オン・ザ・ウォーター』をやったり、いろいろな曲を演奏しました。1981~82年頃です」

 

 当時の東京では、デニーの記憶によれば日本独特のビートロックやパンク系が聴かれていて、ザ・モッズやARBが頭角を現し始め、1980年代中頃になると、ラフィン・ノーズやザ・ブルーハーツが人気を集めるようになる。

 

 その頃、芸能界では「おニャン子クラブ」が席巻し始めた。いわゆる「日本」発のバンドに疎かったデニーが、それらの音楽を本格的に聴き始めたのは、沖縄に帰り、1990年代に入ってラジオ番組のパーソナリティを始めてからだ。

 

「新宿のゲームセンターで働いていたときに、取引先に一風変わった人で、ジュークボックスがあった店の店長がいて、その店長さんはレコードショップに行ってビルボードチャートで上がってきそうな曲を、当時は白盤といってレーベルを貼ってない見本のシングルレコードがあったんですが、白盤でもらってくるんですよ。

 

 日本語タイトルなし。その人はディスコマニアだったから、ディスコで聴いてレコードショップで見本をもらってきて、自分の店のジュークボックスでかける、ということをしていました。

 

“どうだ、ナウいだろう” って店長は自慢げでしたね。彼はわざわざ方眼紙を買ってきて、そこにタイトルをポップアップっぽくデザインして書いていたんです。

 

 僕は、当時タマちゃんと呼ばれていたんですが、“タマちゃん、この仕事を君に譲るからやってほしい” と言われて、譲るといわれてもねえ、と思いながらやり始めたんです。

 

 僕がビルボードとオリコンを見て、レコードショップ行って、ハクバン来てますかーって訊くと、来てるよーって、それをジュークボックスで聴いて、タイトルを把握して、イメージした歌詞とかを日本語にしてポップにしていく。カラフルに仕上げるためにサインペンが十何色もありました。

 

 バイト先が新宿歌舞伎町だったこともあり、コマ劇場の前にあったディスコにたまに行ったりしていたんですが、DJが曲をつなぐのをかっこいいなあと思って見てました。踊るというよりも、もっぱら曲を聴いて楽しんでましたね」

 

 休みのたびに時々帰沖していたが、卒業を機にデニーは東京を離れ、専門学校の恩師の紹介で、沖縄市の老人センター運営協議会の臨時職員を2年間勤めることになる。デニーは21歳になっていた――。

 

 

 以上、藤井誠二氏の新刊『誰も書かなかった玉城デニーの青春 もう一つの沖縄戦後史』(光文社)をもとに再構成しました。ミックスルーツ、バンド時代、福祉への志、人気DJ、そして政治の道へ。知られざる沖縄県知事の人生。

 

●『誰も書かなかった玉城デニーの青春』詳細はこちら

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