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引退を表明したヤクルト・嶋基宏「ゆくゆくは指導者に」…野村克也、星野仙一、高津臣吾“3名将”を語る

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2022.10.21 06:00 最終更新日:2022.10.21 06:00

引退を表明したヤクルト・嶋基宏「ゆくゆくは指導者に」…野村克也、星野仙一、高津臣吾“3名将”を語る

「リードで困ったときは外角低め」というノムさんの口癖を嶋が実践すると、「お前いつも困ってるな」とノムさんに言われたという(写真・共同通信)

 

 球界には毎年、新たな選手たち70~80人が入団してくるが、登録人数は決まっているため、同等程度がユニホームを脱ぐ。平均在籍年数は7.7年と、非常に厳しい世界だ。

 

 その意味で16年間も在籍したとなれば、やりきった思いがあるのではないか。楽天、ヤクルトで日本一を経験し、今季限りで引退を表明した嶋基宏(37)に、阪神とのCS直前に話を聞いた。

 

「16年をひと言で表わすのはなかなか……本当に名将と呼ばれる監督方に、いいタイミングで巡り会えたと思います。素晴らしい指導者に出会えて、僕にとっては非常に幸せな現役人生でした」

 

 

 嶋は中京大中京高から國學院大を経て、2006年の大学・社会人ドラフト3巡めで楽天に入団。1年めから正捕手に抜擢されたが、意外にも捕手を始めたのは大学1年生の終わりからだった。

 

「それまでは内野手で、セカンドがメインでした。で、竹田利秋監督(現総監督)から『捕手をやってみろ』と言われ、基礎から徹底的に教わりました。あのコンバートがなければ、今の僕はありません」

 

 もちろん楽天には捕手として入団した。だが、プロとアマの差を入団早々に思い知らされたという。

 

「まず投手の球速、変化球のキレに驚かされました。それにランナーの足の速さなど、とにかく野球のスピード感が全然違いました。また、大学は週に2試合、しかも春と秋だけなんですけど、プロは毎日試合があるので、本当にすべてが違うし、『ついていけるのかな』というのが最初の印象でした」

 

 プロのレベルに打ちのめされた嶋だったが、ここで球界の師とも呼べる人物と出会った。

 

野村克也監督には、捕手としてのすべてを教えてもらいました。覚えている言葉? リードで『困ったときは原点回帰。外角低めや』ですね。でも僕があまりにもそこばかり要求するので、『お前はいつも困っているのか?』と言われました(笑)。あとは、『右目でボールを見て、左目で打者の反応を見ろ』と、耳にタコができるほど聞かされました。どれも当たり前のことですが、繰り返し言われたことで、強く意識するようになったと思います」

 

 生前、野村氏は本誌のインタビューに「嶋は頭のいい選手。少しずつではあるが、成長していってるよ」と、目を細めていたことを思い出す。

 

「いや、自分では成長したなんてまったく思いませんでしたよ。捕手は1年や2年で成長したり成功を収めるような簡単なポジションではない。10年、15年と続けてやっと形になったりとか、チームの勝ちがともなってきて認められるポジションだと思っているので。とにかく1年1年が必死でした」

 

 野村氏が退任すると、次の師と出会う。“闘将”星野仙一氏だった。

 

「僕は岐阜県出身で、小さいころから中日時代の星野監督の映像をよく見ていたんですが、テレビで流れるのはベンチを蹴り上げたり、扇風機を殴ったりしているシーン。怖い人というイメージが強く、『星野さんのもとでできるかな』という不安は正直ありました。なので、最初会ったときは『あの星野さんだ!』と思いましたね(笑)」

 

 だが、ともに戦う時間が長くなるにつれ、星野氏の違った姿が見えてきたという。

 

「最初の1年間はほとんどしゃべったことがありませんでしたが、2年3年たつにつれて、少しずついろんな話ができるようになり、距離が縮まっていきました。そうすると、だんだん星野さんの人間的魅力に惹かれていったように思います。

 

 ああいう性格の方なので、褒めることはほとんどないんですが、突然ちょっと褒められたりとか、落ち込んでいるときに声をかけてくれたりなど、そのひと言の重みやタイミングが絶妙なんです。選手を見ていないようでしっかり見ていて、ほんの少しの変化にも敏感に気づいてくれる。一緒にやっていて、そうした感覚がすごいな、と思っていました」

 

 その星野氏の楽天監督就任1年めに、東日本大震災が発生。嶋は「見せましょう、野球の底力を」と、球史に残るスピーチで日本中に勇気を与えた。

 

 しかし、あの名言のイメージが先行して、プレッシャーとなって己にはね返り、人知れず苦しんだという。ただその奮闘は、2013年田中将大(33)とのバッテリーが原動力となった球団初の日本一で結実。「そこで肩の荷がすべて下りた」という。

 

 2019年オフに、ヤクルトに移籍。2021年は日本一を勝ち取り、セ・パ両リーグでの日本一を経験した数少ない選手となった。2022年からは、コーチ補佐を兼任する。

 

「僕は楽天とヤクルトしか経験していませんが、ヤクルトは高津臣吾監督以下、チームがここまでひとつになって同じ方向を目指せるということに驚かされました。選手もスタッフも、優勝に向かってひとつになって戦ったということが、連覇のいちばんの要因じゃないかと思いますね。

 

 僕は評価する立場にありませんが、高津監督の統率力には脱帽です。もちろん村上が素晴らしい成績を収めたり、強力な中継ぎ陣で勝ちをしっかり拾っていった結果でもあります」

 

 村上宗隆(22)とは、グラウンド外でのつき合いも多いという。

 

「コロナがあってしょっちゅうは無理でしたが、球団から外出許可が出れば、一緒に食事に行ったり、ホテルの部屋で話したりすることがけっこうありました。彼にアドバイス? いやいや、どう見ても彼の野球のレベルはかなり上なので、野球以外の話や他愛もない話をしてますよ。バッティングについては感覚が違いすぎて、僕にはわからないですから(笑)」

 

 今季、ヤクルトは主力が新型コロナウイルス陽性で大量離脱したが、村上は四番打者として試合に出続けた。

 

「あのときもよく話しました。彼は表情には出しませんが、僕らには計り知れないくらいのプレッシャーを感じていたはず。それが少しでも和らいで、次の日にリフレッシュして試合に臨んでくれればと、一緒に食事したり、くだらない話で盛り上がったりしました」

 

 日本シリーズでの自身の役割は?

 

「今までどおり若い選手をしっかりサポートして、ベンチで誰よりも声を出して、試合に出ている選手の気持ちを全力で押し上げる。僕にできるのはこれだけだと思っているので。選手が毎日迷いなくグラウンドに立てるように、チームを支えたいと思っています」

 

 そして引退後は「ゆくゆくは指導者になりたい」と語る。どんな指導者を目指すのか?

 

「人の痛みをわかったうえで、厳しいことも言えて、人間味のある指導者になりたいですね。いろんな監督、コーチと接してきて、『こういう人間になりたい』『選手としてはこのようにやってもらえたらありがたい』と、僕自身が感じたことも多かったので、それを若手やベテランに還元できたらいいな、と思っています」

 

“名将のDNA”を継ぐ男の“第二の人生”に興味は尽きない。

( 週刊FLASH 2022年11月1日号 )

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