「地元なので家族と来ることもありますが、最近は後輩とよく来るかな。お寿司屋さんなので魚料理が美味しい。当たり前ですが、ふだんはノーメイクです」
地元・荻窪にある「すし屋の源」でビール片手に静かに飲んでいるコウメ太夫。
「チャンチャカチャンチャン♪」という拍子とともに、白塗り着物姿でネタを披露し、一世を風靡した彼は、昔から歌って踊れるスターに憧れていた。
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「マイケル・ジャクソンが好きで、彼のような世界のスーパースターになりたいという夢がありました。若いころは自分をわかっていないので17歳のときにジャニーズ事務所に履歴書を送りました。いつになっても(合格の)返事が来ず……そこで現実を知りました」
高校卒業後、コウメは梅沢劇団に所属。歌と踊りを習い、女形で活躍する。
「座長は梅沢富美男さんのお兄さんの武生さんだったんですが、すごく認めてくれ、CDを出すという話にまでなりました。ただ、まわりが『CDを出しても売れるもんじゃない』と言ったのを耳にし、一気に気が重くなってやる気がなくなってしまい、劇団をやめました。今思えば、なんでやめたんだとは思うんですけど、当時はまだ違うことでスターになれるとどこかで思っていたんです」
子供のころからドリフターズが大好きで、学校でもひょうきん者だったというコウメは “お笑い” を目指し始めた。
「お笑いがいちばん競争率が低いと勝手に思っていました。入ってみて現実を知ったというか。お笑い好きでしたが、初めは軽い気持ちでした」
若くして亡くなった父親が芸能プロデューサーであったため、母親がそのツテを駆使してサポートした。
「お笑いを始めるときも、母親がマセキ芸能社の社長に話をつけてくれて、ネタ見せ会に誘ってもらって。当時、コンビだったバカリズムさんがいたのを覚えています」
コネでライブに参加するも、ほかの芸人たちとの実力の差は歴然。そこで「一人でやるよりは……」と相方を見つけてコンビを組んでは解散を繰り返した。
「当時はコントをしていましたが、これが全然ウケない。まぁ基礎もないし、当たり前なんですけど。すべてのお笑い事務所のオーディションに行ったんじゃないかな。もちろんどこにも引っかからず、コネがあっても実力がともなわないと意味がないということをあらためて知りました」
「35歳までにお笑いで生活できないなら芸人はやめる」と、母親と約束していた。タイムリミットが近づき追い詰められたコウメは、ついに「白塗り」を思いつく。
「事務所の掲示板に相方募集のメッセージを残しても誰一人来ないので、しかたなくピンで活動していました。
そんなとき、『エンタの神様』(日本テレビ)で波田陽区さんが活躍しているのを見て、着物姿でひと言ネタの女性バージョンがあればおもしろいかもと始めたのが白塗りです。
梅沢さんのところである程度、女形の基礎を習っていたので、役に立ちました」
この白塗り着物ネタで「ウケる」ということも初めて知った。
「ライブに出たらとにかくウケるんですよ。こんなこと初めてでした。ここにきてやっと人を笑わせられたと思いました。スタート地点に立てた感じですね」