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「近代サッカーの父」アウシュビッツで命を落とす…インテルで1度、ボローニャで2度の優勝を果たした名将の悲劇

ライフ・マネー 投稿日:2022.10.26 16:00FLASH編集部

「近代サッカーの父」アウシュビッツで命を落とす…インテルで1度、ボローニャで2度の優勝を果たした名将の悲劇

アウシュビッツ強制収容所 (1941年1月、写真:AP/アフロ)

 

 ハンガリー人のアールパード・ヴァイスは、1926年の末にインテルに戻り、翌1926-1927シーズンから同チームの監督を務めた。1939年以降はドルトレヒト・フットボール・クラブ(DFC)で監督を務めている。セリエAのインテルで1度、ボローニャで2度の優勝を果たした名将である。

 

 アールパードは、偉大な改革者、偉大な実験家としての名声も備えた指揮官であった。血なまぐさい暴動を連想させるこの言葉を使ったら、当時は誤解されたかもしれない。しかし今ならば、彼を「革命的な指揮官」と呼んでもおそらく問題はないだろう。

 

 

 西からはスペイン内戦の警鐘が徐々に聞こえはじめていた。そして、東からはスターリン主義の冷たい風が吹きはじめたころである。そんな中、アールパードは、大声を一度もはりあげることなく、サッカーの監督という職業に一種の威厳を与えることに成功した。

 

 1934年、イタリア代表をワールドカップ優勝に導いた名将ヴィットーリオ・ポッツォは、守備と攻撃の両面で仕事のできる5人のディフェンダーを後方に並べるというアイデアを、アールパードから「盗用した」といわれる。

 

 事実、ポッツォは、アールパードのことをずっと賞賛し続けていた。彼を賞賛するためなら、場所も機会も問わないほど、このハンガリー人指揮官に心酔していたのである。

 

 アールパード・ヴァイスは、当時のサッカー界で起きつつあったプレーにおける革命を完成させた人物といえる。既存の概念を根底からひっくり返したという点で、彼の中に「近代サッカーの父」の姿を見る者が存在するのもうなずける。

 

 特に知られているのは、アールパードが、当時ロンドンでアーセナルを指揮していたハーバート・チャップマンが発明し、イタリアでは「システマ」の名で知られた、最新システムの最も有名な採用者であったことだ。ピッチ上で選手がWMの形に並ぶことからWMフォーメーションとも呼ばれたこの布陣は、第一次世界大戦後、多くのイタリアのクラブが好んで採用していた。

 

 アールパードは、チャップマンのオリジナルモデルに無条件の忠誠を誓っていた。その姿勢から、彼がチャップマンから直接WMシステムの概念を伝授されたのではないかと推測する者さえいる。より現実的な仮説としては、2人の指揮官が、オフサイドの新ルールに適応するために、守備陣の配置を再編し、それが偶然同じになったと考えるべきだろう。

 

 それ以前の「メトド」と呼ばれていた戦術は、アールパードの新進気鋭の魂によって一掃された。後方から全体のプレーをコントロールする “チェントロメディアーノ”(現在の中盤の底の司令塔のようなもの)の誕生、前線では、インサイドFWが後方に下がる一方、センターフォワードはより高い位置でプレーできるようになった。

 

■ナチスの影

 

 もし、アールパードという人物を抹殺したいのなら、彼からサッカーボールをとりあげればいい。おそらく、みなそのことは分かっていた。ただ、他人の意見に聞く耳を持たず、機械的に仕事を継続するナチシンパのお役人たちには、おそらくそんなことはどうでもよかったのだろう。簡単な書類とハンコだけで、人の死が決まる、そんな時代だったのだ。

 

 アールパードへの “判決” も、そんな作業の一環としてくだされた。書類番号1621。戦後ずっと、ドルトレヒト市中央文書館に保管されていたものだ。作成日は1941年9月29日となっている。国家警察ドルトレヒト分署からDFCのフロントに宛てられたものだ。

 

「我々はあなたがたに以下のことを申し渡す。1941年9月15日発布の『ユダヤ人の公的行動に関する法令』に基づき、貴クラブの監督であるアールパード・ヴァイスに対し、観客を集めることを前提に企画・開催されるすべてのゲームの場への参加を禁止とする。

 

 また、今後、あなたがたが、貴組織内でユダヤ人を雇ったり、保持したりすることのないよう強く助言する。現在の国内情勢をかんがみたとき、そのことがあなたがたの組織に多くの損害を与えることになりかねないからである」

 

 アールパード・ヴァイスは、監督業を停止せざるを得なかった。脅迫は明確で無慈悲だった。その書簡は、明らかにこう言っている。「お前ら、気をつけないとひどいめにあうぞ」と。

 

 そして1942年5月1日、前々から起こるのではないかと思っていたことがついに現実のものとなった。アールパードが46歳になってからわずか2週間後のことである。いつものようにドイツ軍からの通達が来た。ユダヤ人に、外出用のジャケットやコートの上に黄色い星をつけることを強要するものだった。いつも通りの断固とした強要だった。

 

 それまで、その法令は、ドイツ国内でしか適用されていなかった。オランダは、もはや「第三帝国」の一部だった。そして、その6つの角を持つ黄色い布切れは、恐ろしい怪物のようにユダヤ人を侮辱する道具だった。すべてのユダヤ人がそれに従うしかなくなった。

 

 星の強要以外にも、ナチスは、彼らに制限を課してきた。どれも、憎むべき禁止命令ばかりだ。例えば、買い物のための外出は、午後の2時から5時まで。公共の交通機関の使用も同様の時間帯に限られた。その他、ユダヤ人以外が住む住居への侵入は禁止。夜間も午後10時から翌朝6時までの外出が禁じられた。

 

 もはや事態はそこまで進んでしまっていた。最初は一部の場所に限られていた制限が、徐々に自分たちがよく通う場所、仕事場にまで拡張され、今では激しく傲慢で情け容赦のない反ユダヤ主義が、彼らの家の中にまで侵入してきた。

 

 彼らの一日は、すべてが逐一スキャニングをかけられているようなものだった。想像してみよう。午前中、星が縫いつけられた服を着た妻のエレナは、日用品の買い物ができる午後の3時間を今か今かと待っている。

 

 一方、学校からはじき出されたロベルトとクララは、仲の良い友人とまったく会えなくなった。そして、アールパードは、今まで足しげく通っていたパブにももう行けない。法律によって、彼らはそこからも締め出されたのだ。

 

 それは、まるで生き地獄である。ただ、最悪の事態が彼らを襲うのはまだ先のことだ。各地でゆっくりとだが、ユダヤ人の一掃が始まっていた。もはや、わずかな正常性も残っていない世界。4人に残された時間は、もはや数カ月だった。

 

 一家が拘束されたのは、1942年8月のことだ。まもなく一家は全員がアウシュビッツで命を落とすことになる――。

 

 

 以上、『セリエA発アウシュヴィッツ行き~悲運の優勝監督の物語』(光文社、マッテオ・マラーニ著、小川光生訳)を再構成しました。ファシズム政権下でサッカー選手、監督として活躍した名将は、なぜホロコーストの犠牲となったのか?

 

●『セリエA発アウシュヴィッツ行き』詳細はこちら


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