ライフ・マネーライフ・マネー

山本五十六、撃墜される…1943年4月18日、同じ空に幻の「3番機」がいた!【スクープ】

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2023.04.18 11:00 最終更新日:2023.04.18 11:00

山本五十六、撃墜される…1943年4月18日、同じ空に幻の「3番機」がいた!【スクープ】

山本五十六(写真:近現代PL/アフロ)

 

「あの海軍甲事件で山本五十六長官が撃墜された時、私は1番機、2番機に続く『3番機』の搭乗員として、長官と同じ空を飛んでいたんです」

 

 私がこの話を聞いたのは、令和元年(2019年)9月のことだった。

 

 当時の私は文学部歴史学科の大学3年生であった。子どもの頃から歴史が好きだった私は、大学でも日本近現代史を専攻し、卒業論文の題材として太平洋戦争を選んだ。そして自分の知見を深めるべく様々な戦争体験者の証言を聞いて回っており、そのフィールドワークの一環として、私は神奈川県に在住の青木藏男という人物の元を訪ねていた。

 

 

 青木さんは大正12年(1923年)5月4日、石川県で生まれた。幼少期より飛行機に強い憧れを持ち、昭和13年(1938年)に海軍に入隊、駆逐艦「響」乗組員を経て、昭和15年9月に転科試験に合格、偵察練習生49期となった。

 

 太平洋戦争開戦時は第六航空隊(第二〇四海軍航空隊)に所属し、輸送機の電信員としてラバウルに進出し、ソロモン諸島の激戦を経験した。

 

 部隊の解散後は横須賀に戻って海軍航空技術廠飛行実験部のテストパイロットとなり、「彗星」「天山」「銀河」「白菊」「深山」「連山」など、数多くの機体に搭乗した経験を持っている。

 

 96歳という高齢でありながら、足腰もしっかりしており、記憶も明白で言葉も淀みがない。

 

「とにかくその4月18日の出来事は忘れられません。先行した長官の1番機・参謀長の2番機が米軍機に撃墜され、私たちは奇跡的に襲撃を受けずに済みました。3番機はそのまま何事もなくブインへと着陸しましたが、降りた先ではみんなに長官の1番機と間違われましてね。ハハハ……」

 

 海軍甲事件とは、太平洋戦争中の昭和18年4月18日に発生した事件のことである。大日本帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六大将が、日米の最前線となっていたソロモン諸島で、最前線を視察するためラバウルからブインへ移動中、搭乗していた機体をアメリカ軍の戦闘機に撃墜されて戦死した。

 

 これ以降の日本の戦争指導に重大な悪影響を与えた事件であり、ミッドウェー海戦やガダルカナル島(ガ島)の戦いなどを含め、太平洋戦争における一つの転換点といわれることも多い。

 

 この事件では、五十六が搭乗した1番機、宇垣纏参謀長が搭乗した2番機、合わせて2機の一式陸上攻撃機が襲撃され、1番機はブーゲンビル島南端のモイラ岬付近に、2番機は海上へと不時着した。

 

 その結果、1番機の搭乗員11名は全員戦死し、2番機は12名中9名が戦死、宇垣参謀長ら3名のみかろうじて生存するという惨事となった。

 

 通説では、海軍甲事件において登場する陸攻は2機だけである。事件を取り扱った多々ある先行研究の中でも、「3番機」が存在したということを書いているものは何一つ存在しない。

 

 果たしてこの話は真実なのだろうか。証言の信憑性に疑問を感じていた私に、青木さんは一冊の資料を手渡してくれた。

 

「私の持っている航空記録です。今はもう、私の海軍時代の経歴を証明するただ一冊の手帳ですが、ここに私が『3番機』として空を飛んでいたことが書かれていますよ」

 

「航空記録」とは海軍の搭乗員が携行していた履歴書で、毎日の飛行時間や任務、搭乗した機体の番号、さらには累計飛行時間などを記録した個人資料である。

 

 戦後の長い月日を経てボロボロに劣化し、持つだけで壊れてしまいそうな手帳であった。青木さんがページをパラパラとめくり、昭和18年4月18日の項を指し示す。そこには、青木さんが搭乗した輸送機の詳細な飛行時間と機体番号、そして「山本長官死亡」の文字が、鉛筆でハッキリと書かれていた。

 

 青木さんが言っていることは、どうも本当のことらしい。先の戦争からもう75年以上が経っているために、オーラルヒストリーで語られるエピソードは慎重に考証を重ねなければならない。しかし当時の資料が残っているなら、その信憑性はぐっと上がる。

 

 そこで、アジア歴史資料センターから当時の史料を探してみると、二〇四空輸送機隊の飛行機隊戦闘行動調書が見つかった。その昭和18年4月18日の項には、他の搭乗員の名前に混じって青木さんの名前が記されており、書かれている内容も青木さんの航空記録と完全に一致していた。

 

 もはや一連の証言は事実として認めざるを得なくなった。長官を乗せた1番機、参謀長を乗せた2番機の他に、そのすぐ後ろを飛んでいた幻の3番機が存在していたのである。機体番号は「T2-902」、機種は旧式の九六式陸上攻撃機を輸送機型に改造した「九六式陸上輸送機」だと分かった。

 

 昭和18年4月17日。西日も傾きかけてきた頃、宿舎でくつろいでいた青木さんの元に当番兵が駆け込んできた。輸送隊の搭乗員は司令室に来るようにとの命令である。

 

 青木さんたち4人が司令室へ赴くと、神妙な顔つきをした司令が口を開いた。

 

「明日18日、海軍の長官および幕僚一行が、前線視察と士気鼓舞のため、ブインへ向けて出発される。この視察において、長官はソロモンの最前線で戦う我々将兵に思いを馳せ、その労をねぎらうべく慰問品として甘味をご用意された。長官のご来訪に合わせ、ブインの将兵には慰問品が振る舞われる予定である。お前たちは明日の朝、この品物をラバウルからブインまで安全に輸送せよ。出発時刻は明朝〇六三〇。以上」

 

 海軍の長官とは、他ならぬ山本五十六司令長官のことだ。青木さんはそう判断した。わざわざ司令が直接自分たちに命令を伝えるとは、何か機密性の高い物を運ぶのではないかと思ったが、話を聞くとどうやら箱詰めにされた慰問品を運ぶだけらしい。

 

 中身が甘味と知って気が抜けたのか、メンバーは帰路で思い思いに感想を呟いた。青木さんもそれは同じだった。

 

「海軍の長官といえば山本司令長官ですよね。そんな御方がわざわざブインまで出向いて、大丈夫なんでしょうか?」

 

 青木さんが質問してみると、「我々が心配することじゃない。万が一長官が敵機に襲われても直掩機が守ってくれる。我々はいつも通り、自分に与えられた任務に集中すればいいんだ」という返事がかえってきた。

 

 そして翌日。

 

 1番機・2番機の一式陸攻に比べ、3番機の九六陸輸は型落ちの旧式機である。一式陸攻の巡航速度は時速315km、かたや九六陸輸は時速260km。性能に顕著な差がある3番機は、あっという間に後方へと取り残された。やがて1番機と2番機は蒼空の彼方に姿を消し、気づけば3番機だけが単独で飛行を続けていた。

 

 1番機・2番機に向け、米軍のP-38戦闘機の編隊が襲いかかっていることなど、知る由もなかった――。

 

 

 以上、『山本五十六、最期の15日間~歴史に埋もれた「幻の3番機」』(光文社新書、池田遼太著・青木蔵男語り)をもとに再構成しました。山本五十六の最期を、埋もれた資料をもとに完全再現します。

 

●『山本五十六、最期の15日間』詳細はこちら

( SmartFLASH )

もっと見る

今、あなたにおすすめの記事

ライフ・マネー一覧をもっと見る