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タイガーマスク、デビュー戦はスタッフ総出でマスク手作り…実況アナのプロレス秘話/女子アナ日下千帆の「私にだけ聞かせて」

芸能・女子アナ 投稿日:2023.04.16 16:00FLASH編集部

タイガーマスク、デビュー戦はスタッフ総出でマスク手作り…実況アナのプロレス秘話/女子アナ日下千帆の「私にだけ聞かせて」

保坂アナ(左)と日下アナ

 

 プロレスは、単なるスポーツでも格闘技でもなく、奥が深いエンターテインメント――その素晴らしさをリングサイドで実況するアナウンサーにも、試合の迫力やすごみを伝える大きな責任が課せられています。

 

 今回は、前振りの一声でプロレスファンのアドレナリンを大放出させた、保坂正紀アナウンサーにお話を伺いました。保坂アナは、私にとってテレビ朝日時代の大先輩にあたり、足を向けて寝られない恩人です。

 

 

 1980年、全国朝日放送株式会社(現・テレビ朝日)入社。新人の頃から『モーニングショー』のリポーターと『ワールドプロレスリング』で実況を担当。その後、『こんにちは2時』『ANNニュース』などで活躍。今年1月、テレビ朝日を定年退職し、セカンドステージを歩んでいらっしゃいます。

 

――新人からゴールデン枠での実況は大抜擢かと思われますが、プロレスはもともと詳しかったのですか?

 

「日下さんだから話しますが、それまでプロレスを見たことは、ほとんどなかったのです。プロレスの開催がめったにない甲府で育った私は、会場で観戦したことは一度もなく、いきなりの業務命令にどうしようかと焦りまくりでした。

 

 当時、テレビ朝日は、1980年開催のモスクワオリンピックの独占放送権を取得していたので、先輩たちはみんなオリンピックの準備で大忙しでした。

 

 それで、当時、入社4年めだった先輩の古舘伊知郎さんと2人でゴールデンの放送を任されたんです。私はご挨拶で伺ったとき、初めて生でプロレスを見ました。

 

 古舘さんはもともとプロレスの大ファンで、お金がなかった高校時代には、屋外スタジアムだった田園コロシアムの試合をどうしても見たくて、東横線を何度も往復して、車窓から試合を見ていたくらいのファンでした。

 

 古舘さんとの違いを出す意味あいもあり、私はプロレスを初めて見る人にもすごさがわかるような実況に徹しようと思いました」

 

――プロレスを生で見たとき、最初はどう思われましたか?

 

「痛そうだなーというのと、すごい迫力だなと思いました。このプロレスのすごさをどう伝えるか考え、新日本プロレスの道場に通って、実際に技をかけてもらいました。想像を絶する激痛で、ちゃんと鍛えて受け身を身につけないと、普通の人がやったら死ぬと思いましたね。危険手当が欲しいと思いましたよ(笑)」

 

――特に印象に残っている試合はありますか?

 

「1981年におこなわれた初代タイガーマスクのデビュー選です。覆面の正体は佐山聡で、当時、海外遠征中でした。メキシコからイギリスに移り、現地でもすでに人気があったのですが、タイガーマスクになれと言われて、急遽、帰国したのです。

 

 本人は乗り気ではなかったのですが、会社の命令ということで、仕方なく帰国してデビュー戦を迎えました。

 

 ところがアクシデントが発生したんです。急なことと手配ミスで、マスクが間に合わなかったのです。スタッフ総出であわててマスクを手作りして、なんとか試合には間に合ったのですが、しょせん素人の作品で、とてもお粗末でした。

 

 まるでパッチワークのような代物で、目と鼻の位置があわず、タイガーマスクは試合中、息苦しいうえに前が見えなかったのです。そんな苦境にもかかわらず、空中殺法や威力満点のキックを繰り出し、ファンの度肝を抜きました。

 

 佐山選手は、キックボクシングに柔道、メキシコ流プロレス『ルチャリブレ』まで心得がある人で、颯爽とデビューして、あっという間にプロレスブームを巻き起こしました。

 

 当時、『ワールドプロレスリング』が放送されていた金曜の夜8時は、裏番組に『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)や『3年B組金八先生』(TBS系)といった人気番組があり、視聴率激戦区だったのです。

 

 それが、タイガーマスクの登場で、それまでの15%から一気に20%超えまで視聴率が上がったのです。一大ブームが2年4カ月続きました」

 

――佐山さんは、全盛期に突然、新日本プロレスをやめる決断をしたそうですね。

 

「はい。理由は、猪木さんの事業の失敗など、さまざまな揉めごとが起きたためと聞きました。人気絶頂でやめた佐山選手は、『プロレス界の山口百恵さん』とでもいうべき存在でした。

 

 2年4カ月の間におこなわれた155試合で、1度もフォール負けしていないのは、あまりにすごい記録です。他にそんなレスラーはいません。

 

 もうひとつ忘れられない試合があって、1987年10月4日に開催されたアントニオ猪木vs.マサ斎藤の “巌流島決戦” が印象的でした。

 

 客なし、ルールなし。広大な巌流島(正式には船島)の芝生と雑草の上に真っ白なリングをしつらえて、2時間を超える死闘を繰り広げたのです。

 

 実況は私1人で担当し、トイレにも行けませんでした。解説は山本小鉄さんで、立会人が坂口征二さん。この2つの試合は忘れられないですね」

 

――レスラーのみなさんの素の顔は、どのような感じですか?

 

「優しい紳士が多いですよ。ただ、レスリングに関しては、みんな自分がNo.1という意識なので、団体が分裂して乱立してしまうこともありますが……」

 

――プロレス以外にもニュース、バラエティ、情報番組も担当されていましたね。

 

「『モーニングショー』では、大寒の日に北海道のお寺の庭で、フンドシ一丁で寒中水行を僧侶と一緒にやりました。生放送で気温はマイナス11度。妻が長男を妊娠中だったので、『赤ちゃんの顔を絶対見るぞ』なんて、自分のなかで悲壮感が漂っていました。

 

 バラエティ番組『歌謡ドッキリ大放送!!』は若い人にも人気で、電車で女子高生から『保坂じゃん!』などと指をさされて笑われたこともありました。実は、プロレスファンのみなさんは、やんちゃに見える若い人も常に『保坂さん』と “さん” づけで呼んでくれるので、呼び捨てにされて、最初は傷つきました(笑)。

 

 広報・宣伝部に異動してからは、『相棒』や『科捜研の女』の立ち上げにかかわりました。『相棒』第1作のポスターで、水谷豊さんの左にいる寺脇康文さんが、拳銃の代わりにバナナを持っているのは私の発案です」

 

――近年、動画サイトやSNSなどたくさんのメディアが出てきましたが、これからのテレビはどうなっていくと思いますか?

 

「いまでも、コンテンツプロバイダーとしてのテレビ局の立場は、揺るぎないものがあると思います。

 

 現在、テレビ局は、放送/WEB/通信・配信/イべントの4つを収益の柱に据えて、幅広い媒体・出口でコンテンツを提供する体制を整えています。放送は、ニュースやスポーツ、ドラマなどを提供する出口の1つでしかありません。

 

 個人が自由に情報発信できる時代になったのは好ましいことですが、事実と違う無責任な発信で他者を傷つけたり、誤った印象を植えつけることもありますから、運用は慎重にしないといけないと思います。

 

 テレビ朝日では、報道で使用する写真と人物名を一致させるため、一次情報を持つ3人に確認しています。たとえ個人でも、発信情報には責任を持たなければいけないでしょう」

 

――65歳で会社を離れ、これからはどのような活動をしていく予定ですか?

 

「朗読のボランティアなど、社会貢献できることをしていきたいですね。

 

 それと、コロナ禍でカラオケ店が閉店するなど、歌うことが大きな制限を受けました。私が所属していた法政大学の男声合唱団は、大正時代から続く伝統ある部でしたが、昨年、廃部になりました。

 

 今後はラジオ番組などで、歌や合唱の素晴らしさを伝えられたら幸せです」

 

■プロレスを10倍楽しく見るための3カ条

 

(1)ビデオなどに収録して得意技の名前や形を覚える
(2)“推しレスラー” を決め、その選手の応援目線で試合を観戦する
(3)各選手の得意技や必殺技がどのタイミングで出るか、相手選手の防ぎ方も想像しながら見る

日下千帆

1968年、東京都生まれ。1991年、テレビ朝日に入社。アナウンサーとして『ANNニュース』『OH!エルくらぶ』『邦子がタッチ』など報道からバラエティまで全ジャンルの番組を担当。1997年退社し、フリーアナウンサーのほか、企業・大学の研修講師として活躍。東京タクシーセンターで外国人旅客英語接遇研修を担当するほか、supercareer.jpで個人向け講座も

( SmartFLASH )

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