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エリザベス女王が死去「SNSで王室広報」「アジア太平洋地域の関係構築」国内外に残した偉大すぎる功績

社会・政治 投稿日:2022.09.09 19:52FLASH編集部

エリザベス女王が死去「SNSで王室広報」「アジア太平洋地域の関係構築」国内外に残した偉大すぎる功績

バッキンガム宮殿で安倍元首相夫妻と写るエリザベス女王(写真・時事通信)

 

 英国のエリザベス女王が9月8日、96歳で亡くなった。1952年に即位した女王は、歴代最長の70年にわたって英国の君主を務めた。また、旧植民地の56カ国からなる連合体「コモンウェルス」の元首でもあった。

 

 女王は王室の近代化に尽力。近年はSNSを駆使して積極的に発信し、国民の支持を広げた。

 

 1953年6月の戴冠式には、日本からは現在の上皇陛下が訪英。以来、日本の皇室と英国王室は、70年近い交流関係がある。女王自身も、1975年に来日している。

 

 

 女王の死去により、王位継承順位1位のチャールズ皇太子(73)が新国王に即位した。

 

 エリザベス女王とは、英国内政、そして国際的にどのような存在だったのか。英国政治、王室に詳しい関東学院大学教授の君塚直隆氏が語る。

 

「第二次大戦後の70年を象徴する存在であり、同時に1066年の『ノルマン・コンクエスト(ノルマン人の征服)』以後の42人の王のなかで、もっとも偉大な君主だったといえます。後世でニックネームがつけられるとすれば、『エリザベス・ザ・グレート』つまり『大王』と言われるほどの存在でしょう。

 

 その理由は、単に史上最長の在位期間だった、ということだけにとどまりません。

 

 たとえば、高祖母である19世紀のヴィクトリア女王は、世界の陸地面積の20%に当たる領土を獲得していった、大英帝国の最盛期の君主でした。一方、エリザベス女王は、20世紀の二度の世界大戦を経て、英国が下り坂の時代の君主にならざるを得ませんでした。

 

 国内は経済がどんどん悪化し、1960年代、1970年代はいわゆる『英国病』と呼ばれた停滞期に入り、むしろ敗戦国の日本や旧西ドイツイタリアのほうが発展していきました。同時期に国外では、アジア、アフリカ諸国がどんどん独立していき、アイルランドではテロが起こるなど、英国はもう衰退したとよく言われました。なんとか国民と一緒になって国を盛り上げないといけない、というたいへんな時代の女王でした。

 

 1980年代になって、マーガレット・サッチャー首相が推し進める改革(サッチャリズム)で、経済はだいぶ上向きましたが、反面、格差が広がりました。ロンドンの金融街・シティで大儲けする人々がいる一方、炭鉱が20も閉鎖され、多くの失業者を生み出しました。サッチャリズムから“置き去り”にされた人々が、大勢生まれたのです。1997年のダイアナ元妃が亡くなった事件のときに、ダイアナ元妃に共感を寄せたのはそういう人たちでした。チャリティをやっているのはダイアナだけ、王室は税金で食っている、といった誤解を抱き、彼らは王室をきちんと理解していませんでした。

 

 エリザベス女王が偉大なのは、その失敗からすぐに学んだことでした。すなわち、国民が王室を理解してくれないのは、自分たちがあぐらをかいているからだと反省し、もっと広報によって自分たちの真の姿を見せなければいけないと考えたのです。

 

 そのため、1997年にはホームページをスタートさせました。21世紀からは、どんどん発達していったYouTubeTwitter、Instagramに参入し、積極的に情報を発信していきました。そのなかで、ほかの王族とともに年間3500件以上のチャリティに携わり、世界中を回っていることが国民に伝わりました。『このおばあちゃん、偉い』という支持が、人々の間で広がりました。

 

 ようやく広報の成果が表れ始め、在位60周年の『ダイヤモンド・ジュビリー』は本当に国内が盛り上がりました、そして記憶に新しい2022年6月の『プラチナ・ジュビリー』は、国を挙げて祝福されました。

 

 こういった地道な広報活動によって、女王とは何か、王族とは何か、王室は何をやっているのか、ということが国民にきちんと伝わったおかげで、王室への支持も安定したのです。時代とともに王室も変わらなきゃいけないと考え、女王は自ら行動したのです」

 

 夫のエディンバラ公爵フィリップ王配との関係はどうだったのか?

 

「エディンバラ公とは、非常に仲がよかったです。もちろん一時期は、浮気をしたのではとか、愛人がいるんじゃないかという噂もありました。どうしても即位したてのころは、エディンバラ公もまだ慣れておらず、奥さんよりも2歩も3歩も引き下がらないといけないというところで、ちょっと戸惑いはあったかもしれません。

 

 ギリシャの王家の出身ですが、生後9カ月のときにクーデターで国を追い出され、ヨーロッパ中を転々とした人物です。それから英国へ行って、海軍士官になったところでエリザベス女王と出会いました。貧しい家の子でしたので、やはり英国王家にやっかいになっている、居候のような側面はあったと思います。

 

 2021年にエディンバラ公が亡くなってから、急にエリザベス女王も体調が悪くなり、それから女王が亡くなったのもずいぶん早かったと思います。やっぱり最後まで、相思相愛だったということでしょう。2人は本当に二人三脚で73年間やってきました。その姿勢は、子供たちも見習ってほしかったですね」

 

 女王も、政治には直接関わらない象徴的な存在だったのだろうか?

 

「立憲君主制において、王様はいわゆる『ソフト』の政治外交を担っている、という表現を私は使っています。首相や官僚、外交官たちが『ハード』の政治外交を担い、実際に物事を決める役割ですが、『ハード』と『ハード』はぶつかりやすい。それがいまの東アジアの状況で、首脳同士が会うことができません。

 

 外交は、会うことからスタートします。『ハード』同士はなかなか会えなくても、『ソフト』の場合は何も決めることはないので、すぐに会うことができます。実質的な進展はなくても、外交関係自体は会うことによって継続できるのです。21世紀における立憲君主制の役割というのは、継続性と安定性を国にもたらすことです。70年間、『ソフト』の側面から外交に関わってくれた女王は、非常にありがたい存在。『ハード』はいくらがんばっても『ソフト』になりませんが、『ソフト』は地道に積み重ねると『ハード』になります。

 

 アパルトヘイトの廃止にも、女王が尽力しました。また、2016年に決定した『ブレグジット(EU離脱)』では、英国はEU諸国から批判を浴びました。それでもスムーズに離脱するために、2017年から王室総動員でEU加盟国をすべて回り、各国の理解を得て、離脱することができました。普段は王室は『ソフト』ですが、いざというときに『ハード』の手伝いをしてくれる。そういう強みがあります」

 

 日英関係において、女王はどのような役割を果たしたのだろうか?

 

「第二次世界大戦で敵と味方に分かれて、それまで長く続いていた良好な関係が切れてしまいましたが、やっぱり日本ともう一度和解したいという気持ちが、エリザベス女王にはありました。1961年、女王のいとこにあたるアレクサンドラ王女が初来日し、1962年、秩父宮の勢津子妃が英国へ答礼訪問。それが1971年の昭和天皇の訪英、そして1975年のエリザベス女王来日につながりました。

 

 今の天皇陛下はオックスフォード大学に留学し、そのときから王室のお世話になっています。エリザベス女王には、王室と皇室の交流により、日英関係を深めていきたいという考えがありました」

 

 ブレグジット後、英国はTPP(環太平洋経済連携協定)加盟を申請し、太平洋地域にもコミットを始めている。それにも、エリザベス女王の努力が関わっているという。

 

「戦後の英国は米国、ヨーロッパ、コモンウェルスの3つの中で動いてきましたが、実際には英国の『ハード』の政治外交は米国かヨーロッパの二者択一になってしまい、コモンウェルスの比重がどんどん低くなっていきました。

 

 それでもエリザベス女王はコモンウェルスの首長ですから、2年に1回、コモンウェルス首脳会議をおこなって毎回、参加しています。サッチャー元首相やブレア元首相がコモンウェルスとの関係を疎かにしているなかで、女王陛下や王室がアジア、アフリカ、太平洋との関係をしっかりつなぎとめてくれたのです。

 

 ブレグジット後、英国はヨーロッパから一歩離れてしまったため、コモンウェルスとの関係を再構築しようと努めています。機密情報共有の枠組みである『ファイブアイズ』は米国以外、すべてコモンウェルスのメンバーですし、加入申請をしたTPPも、半分以上がコモンウェルスの国々です。今後の英国は、女王陛下がつなぎとめてくれたアジア・太平洋地域の関係を利用して、ブレグジット後の立ち位置を決めていくはずです」

 

 国内では王室の近代化と広報に務め、海外ではコモンウェルスを中心に諸外国との交流を深めてきた。その成果は“象徴”を超えるものであるのは間違いない。

( SmartFLASH )

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