1873年(明治6年)6月11日、日本初の銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)が設立され、翌月、兜町に今も残る海運橋のたもとで営業を開始する。設立の中心となったのは、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一だ。
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初代本店は、文明開化の風を受け、和洋折衷の「擬洋風建築」と呼ばれる様式で造り上げられた。屋根に青銅製のしゃちほこがあしらわれた建物は、錦絵にもたびたび登場するなど、東京の新しい名所として人々に愛された。
しかし、1898年に本店は取り壊され、東京駅を設計した辰野金吾による2代目に代替わりする。初代本店が取り壊された経緯について、都立大学都市環境学部建築学科教授の鳥海基樹さんに話を聞いた。
「取り壊し理由に関する記録は見つかっていないのですが、近代の資本主義が加速する時代でしたから、脆さのある木造建築で銀行を続けるのは厳しいと判断されたのでしょう。
取り壊しの際は、建物を保存してはどうかという声があちこちからあがりました。
初代本店は、当時ほぼ誰も見たことのない西洋風建築を、見よう見まねで苦心惨憺造り上げた努力の結晶ですから、それを壊すことは、非常に抵抗があったようなんです」
実際に第一国立銀行で使用されていたものの一部が、渋沢邸に移されるケースもあった。
「たとえば金庫です。当時の記録から、渋沢邸でこの金庫が書庫として使用されていたことがわかっています。金庫全体を移したのではなく、扉部分を書庫に取りつけたようです。今風の言葉で表現すると、リノベーションですね。
銀行を作ったのは渋沢の大きな業績の1つですし、三井の建物を取り上げる形でやっと開業していますから、かなり思い入れがあったのでしょう。
ほかにも、第一国立銀行の守り神として祀られていた稲荷神社は、曳家(ひきや:建物をそのままの状態で移動させる工法)で渋沢邸に運び入れています。
金庫も神社も今はありませんが、本店の屋根に使われていた鬼瓦は現存しています。こちらはみずほ銀行がいまも所蔵しているはずです」
部品の保存のみならず、取り壊し前には実測図を作成したほか、文章による記録も残している。こうした保存行為は、当時としては珍しかった。
「結果としては部分的な保存にとどまりましたが、非常に画期的なことでした。今でこそ、歴史的建造物を壊すときには写真や図面を残すことが当たり前になっていますが、当時はそんな習慣はありませんでしたから。
その後、同時代の建築を保存しようという考えが徐々に生まれてきますが、第一国立銀行は、その先駆けだったと言えるでしょう」