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伝説の車いすランナー56歳「東京パラ五輪で、金メダルを!」

スポーツ 投稿日:2020.02.24 16:00FLASH編集部

伝説の車いすランナー56歳「東京パラ五輪で、金メダルを!」

写真提供・RDS

 

 35歳で車いす競技を始め、パラリンピック北京大会では金メダル2個、ロンドン大会では銀メダル3個を獲得した、伝説の車いすランナー・伊藤智也(56・バイエル薬品所属)。一度引退した男が、競技に復帰した。その背中を押したのは、競技用車いすの製作に初挑戦する、ある「ものづくり企業」だった――。

 

「僕の病気は進行性なので、再発を繰り返します。どんどん症状が重くなってきて、『ロンドン大会が限界かな』と感じていました。主治医からも、『そろそろ頃合いじゃないか』と言われていたんです」

 

 

 伊藤は、2012年のパラリンピックロンドン大会終了後、49歳で引退。車いす競技人生に幕を下ろし、生活のために、仲間たちとラーメン店を開業した。

 

「牛骨スープの本場・韓国の味を、日本ふうにアレンジしたラーメンで、めちゃくちゃ美味しかったんです。座席数30弱のお店を、2店舗共同経営していました」

 

 彼は2016年10月、障害者最先端支援型ロボットの大会『サイバスロン世界大会』(スイス)に、電動車いすの操縦者として参加した。

 

 会場となったホテルの軒下で、ひとりたたずんでいると、知り合いの関係者が声をかけてきた。関係者の隣にいたのが、工業デザイン全般を手がける「RDS」の杉原行里社長(37)だった。

 

「行里に、『伊藤さん、もういっぺん、走る気はありますか? あなたの体に合ったマシンを開発したら金メダルを獲れますか?』と聞かれて、『ジャストフィットするマシンで速く走れるなら、可能性はあると思う』と、答えました。

 

 でも、僕はRDSが何をやっている会社か知らなかったし、どんな設備を持っているのかもわからなかったので、夢物語を聞いているようでしたね。もらった名刺に、『カーボンで車いすを作ってくれる人』と書いておきました」

 

 初対面ながら、元金メダリストに復帰案を持ちかけた杉原社長は、こう述懐する。

 

「僕もそこで知り合いに紹介されるまで、伊藤さんのことを知らなかったんです(笑)。

 

 引退しているとも聞いたんですが、『もし僕が車いす陸上の選手だったら、チャンスさえあれば、2020を目指すだろうな』と思ったんです。だから、その場で『やりましょうよ!』と言ったことに、迷いはありませんでした」

 

 2016年11月、杉原社長や関係者ほか、「そうそうたるメンバー」(伊藤)が揃った会合がおこなわれた。

 

「これだけの人間が揃うと、相当な資金と時間が必要になると想像できました。そこで彼に、また『一緒にやりましょう!』と言われて、『よし、わかった』と。『これはおもしろくなりそうだ』と思ったのと同時に、まずは資金作りから始めようと、腹をくくりました」(伊藤)

 

 そのためには、トレーニング時間の確保と、当座の生活資金が必要になってくる。

 

「2つのラーメン店を処分して、大事にしていた愛車も売り、新たな所属先を探しました。

 

 僕が使っていた競技用の車いすは、元スポンサーのところに展示してあったので、それを借りてきて。実際に乗ってみたら、現役のころより太っていたので、体が入らなかった(笑)。

 

 1カ月で体重を10kg落として、ようやく車いすに乗れる体になって。ローラー台で漕いでみたら、まったくスピードが出なかった。少しずつ、感覚を取り戻していった感じですね」

 

 一方、RDSでは、伊藤を開発ドライバーに迎えて、1984年の創業以来初めてとなる「競技用車いす(レーサー)」の開発が始まった。

 

「僕らはモータースポーツも手がけているので、レーサーを製作することに関しては、自信がありました。

 

 ただ、いちばん大事なことは、伊藤さんが、最適なポジションで、車いすに乗って、漕ぐこと。そのために、伊藤さんの体の動きを数値化して、可視化する作業を繰り返しました」(杉原社長)

 

 多いときは週に1度、伊藤に、拠点のある三重から埼玉のRDSのラボへ来てもらい、3Dスキャナ・モーションキャプチャ・ハイスピードカメラなどで、スポーツ科学を駆使したデータ収集と解析を続けた。

 

 伊藤も開発チームも同じ目標に向かっているのだが、立場の違いが、ときに軋轢を生んだ。

 

「僕が、『こんな形がいい、このスタイルのほうが漕ぎやすい』って言っても、行里は、『それは感覚でしょう。僕らは数値化してこれがいいと思うから試して!』と。

 

 表現が違うと勘違いも生まれて、もうつかみ合う寸前になったこともありました。『てめえこの!』って(笑)」(伊藤)

 

 RDSの開発チームは、さまざまなデータをもとに、車体を作り上げていった。

 

「ただ、『シミュレータ上だと表現できていても、実機にするとバランスが悪い』ということは何度もありました。それが個体だったら、たとえ数ミリ単位だったとしても、いちから作り直さなければいけない。

 

 伊藤さんの体もトレーニングを重ねて、体格が変わっていく。また、シミュレーションし直す。そんな微調整を繰り返しました」(杉原社長)

 

伊藤の自宅でのトレーニング(写真提供・バイエル薬品)

 

 2019年8月、埼玉の競技場でテスト走行がおこなわれた。伊藤は、400mで1分を切る好タイムを記録した。飛び上がって喜ぶ開発チームをよそに、伊藤は落ち着いていた。

 

「それまで僕が使っていたレーサーと比較して、RDSのマシンは、体に負担がこないし、走行中、『スピードメーターが間違っているんやな』って思うくらい速かった。

 

 そういった意味では喜ばしいことですけど、僕は自分の体をどうやって仕上げていくかに、頭がいっていたんです」

 

 2019年10月、RDS製によるレーサーが完成した。重さわずか7.8kg。片手でも持ち上がる、超軽量モデルだ。その1カ月後、東京への切符がかかった「世界パラ陸上選手権」がドバイでおこなわれた。

 

「『出場権を得られる4着以内に入ればいい』という気持ちで挑みました。結果、400mで銀メダル、計3個のメダルを獲りましたが、大きな喜びはなかったです。

 

 切符は当然だと思っていたし、それを疑う人は、チームにひとりもいなかったと思います。それより、今後の練習メニューを考えていました」(伊藤)

 

 ドバイ大会では、ほかにも100mと1500mで3位になった。東京パラリンピックまで、残された時間は少ない。

 

「『月曜から金曜まで、徹底的に体を苛め抜いて、金曜の夜、全身に鍼を打って、土日はしっかり休む』という生活なんですけど、休んでもなかなか疲れが取れないんです。なので、2日に1度は、女房がマッサージをしてくれます。加齢を感じますね」

 

 平日の練習は、「一般の人では回すことさえできないくらいの負荷」(伊藤)をかけた車いすで、1日30kmをノルマとして走っている。

 

「歯を食いしばってタイヤを回しています。歯がボロボロになるので、2週間前にマウスピースを買いました。重いタイヤを回し続けて1日が終わると、北京で金メダルを獲ったときより喜びがあるんです。『終わった! あとは寝るだけだ!』って。

 

 行里たちが、いいマシンを作ってくれたので、僕は “それに見合うエンジン” にならないといけない。まだまだ筋肉量として足りないし、筋肉を正確に動かす回路も出来上がってない。東京大会まで、できるかぎりのことをやって、最後、みんなが笑える結果を残したいと思っています」(伊藤)

 

 苦楽をともにしてきた杉原社長も、期待を寄せる。

 

「東京大会のとき、伊藤さんは57歳。おっちゃん(伊藤)が白髪まじりで頑張っていると、僕らも『頑張ろう』って思うし、その姿は、多くの人に共感してもらえると思うんです。順位も大切ですが、いいインパクトを残してくれたらいいですね。

 

 ただ、フライングだけは勘弁してほしい(笑)。車いす陸上は、フライング1回でアウトなんです。『それだけはダメです』って、伊藤さんに言っています」


(週刊FLASH 2020年2月25日号)

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