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山田邦子、レギュラー番組最大週14本の元祖バラエティ女王「食事は年間1千食のお弁当。命を削ってやってきた」

エンタメ・アイドル 投稿日:2024.03.17 11:00FLASH編集部

山田邦子、レギュラー番組最大週14本の元祖バラエティ女王「食事は年間1千食のお弁当。命を削ってやってきた」

山田邦子

 

 山田邦子と訪れたのは、予約がなかなか取れないことでも知られる牛たん専門店「たん焼 忍」。

 

「噂かもしれませんけど、入店待ちのお客さんが多すぎて、皆さんがガードレールに座るからパイプが曲がったことがあるらしいですよ」

 

 山田は笑いながら木製のドアを開けて、店内に招いてくれた。

 

 

 カウンターの中では、炭火で焼かれる牛たんから香ばしい煙が立つ。太い木の梁や、おそらく白かったであろう壁は、見事な飴色になっている。

 

「このお店に連れてきてくださったのは『ビジーフォー』のメンバーだったウガンダ・トラさんでした。44年前のことです。お店はオープンしたばかりで、私も本格的に芸能のお仕事を始めた、言ってみればデビュー年でした。

 

 だから、お店の歴史と私の芸能人生の歩みが同じなんです。生まれて初めて『ゆでたん』を食べたときの感動は今も忘れません」

 

 大好きなゆでたんにわさびをつけて口に運ぶ。

 

 たちまち破顔した山田は、「芸能」に憧れた子供時代を語ってくれた。

 

「江東区の下町育ちでした。深川、森下、新大橋あたりが遊び場。当時は寄席もあって、落語家さんや歌舞伎役者さん、芸人さんをしょっちゅう見かけていました。芸能という世界が身近にあったんです。五代目の三遊亭圓楽師匠は、スラッと背が高くてカッコよかったですよ」

 

 本気で圓楽師匠に弟子入りしたいと考えた山田は、中学3年のときに、担任の教師に伝えた。

 

「それを言ったら『高校を卒業するときに考えなさい』と諭されて、付属の高校に進みました。高校3年のときも同じことを相談したら『短大を出たら考えなさい』となり、そのまま進学しちゃったんです」

 

 山田は中・高・短大時代の同級生と漫才コンビを組んでいた。ファンもいて、サインを求められることもあった。短大時代にピンで出場した素人参加番組ではちょっとした有名人だった。

 

「だけど親が決めた就職先の大手建設会社の合格もいただいていました。結局は一度も出社せずに芸能界のお仕事を始めたので、1年後に謝りに行ったら『応援してます』と言われて安心しました。

 

 今でもイベントは、そちらの系列ホテルを使わせていただいています。少しですけどご恩返しです」

 

 こうして山田は「視聴率の女王」への第一歩を踏み出した。そしてすぐに、山田の鉄板ネタが生まれた。

 

「右手をご覧ください、いちばん高いのが中指でございます」といったバスガイドのネタだ。

 

「その前はおもに『魔法使いサリー』のネタをやっていました。だけどNHKから『民放の漫画はちょっと』と言われ、それで『女性の職業をネタにするならバスガイドかな。誰でもバスには乗ったことがあるし』と思いついたんです。

 

 あるときNHKの廊下で、バスガイドから歌手になった八代亜紀さんに『あなた、バスガイドのものまねをやっているコでしょ』と声をかけられ、それから親しくさせていただきました。すごく失礼なことですけど八代さんに『キラキラしているお洋服やアクセサリーはどこでお買いになるんですか?』と伺ったら、『浅草よ』と教えてくださったので、私も以来ずっと浅草で買っています(笑)」

 

 すぐさま、寝る暇もないくらい忙しくなった。

 

「目の前に(ビート)たけしさん、(明石家)さんまさん、郷ひろみさん、沢田研二さんがいるんですから、毎日が楽しかったです。ミーハーな視聴者のまま出演していました」

 

 しかし「下積み」がなかったことから、本来なら付き人などで身につける「基本」がなく、先輩やスタッフに多くを教えられたという。

 

「『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)の収録のときに、たけしさんから『お前、やる気あるのか?』って言われたんです。自分の台詞が終わると『私の出番は終わった』と黙ってしまい、さらには画面から私だけ離れてしまっていることを指摘されました。

 

 たけしさんは『アハハでもなんでもいいから、何かしゃべって画面に入ってこい。若手はみんな “我も我も” と映ろうとしているんだ。そのままじゃ、(芸人として)終わっちゃうぞ』と注意してくださいました」

 

 自らを「素直な性格です」と言うとおり、山田はこうしたアドバイスを守った。

 

 すると、プロデューサーの目にも留まるようになり、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ)など自身の名前がつく「冠番組」が増えていった。しかし不安も募った。

 

「番組を持てたことは嬉しかったですけど、責任の重さで怖くなりました。それまでのゲスト出演とは格段に違って、自分の番組のために何人ものスタッフさんが動いて、すごい額の予算をつけてくれますから。『これは大変なことになった』と思いました」

 

 頑張りすぎて生活は乱れた。食事はほぼ、番組から提供される弁当。

 

「年間1千食のお弁当を食べていましたね。命を削っていました」

 

 体は悲鳴を上げた。2007年、健康番組内の健診で乳がんが見つかった。

 

「宣告されたときはやっぱり驚きました。『人生いろいろ』のものまねをさせていただいた島倉千代子さんが同じ病気の経験があったので、すぐにお電話をくださいまして、『私、入院中もパジャマのままミニコンサートをしたのよ』とお聞きして尊敬しました。

 

 幸い(病気は)軽くすみましたが二度の手術を受け、退院後は島倉さんと温泉に行き混浴も楽しむことができました」

 

 女性タレントで初めてバラエティ界の頂点に立った山田は、2022年からは『M-1グランプリ』(ABCテレビ・テレビ朝日系)の審査員にもなった。今の芸風をどう感じ、若手芸人とはどのように接しているのだろうか。

 

「ネタの内容が高度になっていますよね。すごく練られているし、ギャグも入り組んでいる。それにライバルも多い。昨年のM-1は8540組がエントリーしたんですよ。昔はライバルも多くなかったし、一度見たら忘れられない顔やギャグで笑いをとっていましたから(笑)。

 

 まあ、アドバイスというのもおこがましいですけど、何か伝えられることがあれば伝えたいと思っています。芸に迷っていたら、いいところをほめます。ある程度のキャリアを積んでいたら、悪いところは本人たちがいちばんわかっているんです。だから、どこを伸ばせばいいかをアドバイスします。みんな、売れてほしいですからね。

 

 私のこれからですか? いつまでも子供たちから『クニちゃん』と呼ばれていたいですね」

 

 今日いちばんの笑顔でレモンサワーを飲み干した。

 

やまだくにこ
1960年6月13日生まれ 東京都出身 1981年、デビュー曲『邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)』で有線大賞新人賞受賞。同年『オレたちひょうきん族』(~1989年、フジテレビ)に出演。以降も『邦子がタッチ!』(1993~1997年、テレビ朝日)、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(1989~1992年、フジテレビ)など多数のバラエティ番組で活躍。2008年、がんに対する知識と理解を呼びかけるチャリティー団体「スター混声合唱団」を設立、団長に就任。YouTube「山田邦子 クニチャンネル」開設中

 

【 たん焼 忍 】
住所/東京都新宿区四谷三栄町14-4
営業時間/月~金曜17:00~22:30(L.O.22:00)土曜16:00~20:30(L.O.20:00)
定休日/日曜・祝日

 

写真・野澤亘伸

( 週刊FLASH 2024年3月26日・4月2日合併号 )

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